モンセギュール1244

異端審問。火刑。聖と俗。殉教と棄教の狭間。人の営為と葛藤をめぐるストーリーテリングゲーム。

Montsegur 1244

 Frederik J. Jensen (フレデリック・J・イェンセン) 著 / 岡和田 晃 訳


モダン・ナラティブRPG 

 3~6人用〔ゲームマスター不要〕/ ゲーム時間3~5時間 / 15歳以上向


発売中 (2023年6月10日「ボドゲガレージ」にて先行販売 / 2023年6月下旬一般発売)




本作は信仰等に関する繊細なテーマを扱っています。どこまでの表現がOK か事前に卓の合意を取り、ゲーム・セッション中も理由の如何を問わず参加者にとって許容できない表現があった場合、いったんプレイを中止してください。

「そなたは異端の信仰を棄て、慈しみ深い父なる神の許しを受けるか?」

 1244年3月、数百人ものカタリ派信者に向けて、この質問が投げかけられた。彼らは9ヶ月以上にわたりモンセギュール城塞を包囲していた軍勢に降伏したのである。200人以上が否と答え、それによって火刑に処されることを選んだ。信仰に殉じて死を選んだカタリ派信者たちとは、いったい何者だったのだろう?

 『モンセギュール1244』では、プレイヤーたちは協力して、彼らが何者であったのかという物語を作り上げていく。個々のプレイヤーは、包囲戦における複数のカタリ派信者たちを演じ、棄教か殉教かの選択に直面する。

「カタリ派の出家信者たる完徳者の思想は、私の身体に宿るあらゆる生命肯定の論理と真っ向からぶつかるものでしたが、それでも私は完徳者たるセシルが原理原則を厳格に守り破滅へ向かうさまをロールプレイするのが止められませんでした」

――ウィレム・ラーセン(幼少期のトラウマとその克服を扱うRPG『The Dreaming Crucible』のデザイナー)


「このゲームのまったくもってエモーショナルな内容に、私は強く感銘を受けました。(……)ゲームを終えてから、卓上で起きたことを考えるために、私は長い散歩をせねばならなくなったほどです。それくらい強烈な体験でした」

――クリス・ベネット(森のなかで取り残された孤独の感覚を描写するRPG『Of the Woods』のデザイナー)


「『モンセギュール1244』は、伝統的なゲーム要素をいくつも盛り込みながら、世界史上において注目すべき経験と奥深くも峻厳な選択をシームレスに織り交ぜて提供する。運命に向き合うカタリ派の人々をプレイすることで、叙事詩的で悲劇的なストーリーが前景化し、ゲームのシンプルで革新的なメカニクスがこのテーマをしっかり下支えする。誰かは火刑に処されるのだ。あなたは驚き、そして変わる。これは偉大なゲームだ」

――ジェイソン・モーニングスター(ナラティヴ・スタイルのRPGの代表的作品『フィアスコ』のデザイナー)


「『モンセギュール1244』は、史実を題材に、信仰と忠誠心、親族の絆の考究に焦点化した緊密なゲーム・フレームを採用している。カトリックのアルビジョア十字軍が異端カタリ派に対してなした最後の激烈な包囲戦を背景に、プレイヤーはピレネー山脈にあるモンセギュール城塞に閉じ込められた真なる信仰の担い手の役割を演じる。刻一刻と避けられない終わりが迫るなか、個々のプレイヤーは、自分のキャラクターが信仰を棄てて改宗するのか、信仰に殉じて焼かれるのかを選択せねばならない。この単純明快な選択が、ゲーム全体を駆動させる。

 『モンセギュール1244』は、運命を直視したカタリ派信者たちの恐怖と哀感を見事なまでに惹起し、北欧のライブアクション・ロールプレイングと北米のロールプレイング・ゲームの伝統を見事に融合させている。このゲームは、必要な部分は慎重に作り込まれているが、そうではない部分は完全に自由な形でプレイヤーに任されている。エレガントでシンプルなメカニクスが、ときに驚くほどエモーショナルなプレイをもたらす。プレイヤーに提示される選択肢は不条理なものだ。家族の絆、愛情のもつれ、義務と信仰が、最後に下さねばならない決断の困難を、ただ増幅させるのである」

――2010年度のディアナ・ジョーンズ賞(単なる売れ行きではなく、革新性こそを指標とする「ゲームの卓越性」を評価する賞)選評


「『モンセギュール1244』はゲームとしてとても良くできていて、キャラクターを特徴づけてゆく自由さ(ほのぼの)と、アルビジョワ十字軍によって追い込まれてゆく不自由さ(ゾワゾワ)が徐々に入れ替わってゆくことで、プレイヤーに独特の感情を引き起こさせます。歴史をどれだけ知っているかで受け止め方が変わってくるのも面白いところです」

――大貫俊夫(西洋中世史学研究者、『中世ヨーロッパ ファクトとフィクション』訳者) 


登場キャラクター

正誤表

p.11左段

(誤) 敵の防衛戦を突破して、補給部隊は敵の防衛戦を容易に突破できる。 

(正) 補給部隊は敵の防衛戦を容易に突破できる。 


p.12左段 

(誤)セシルのプレイヤーは背景シート「完徳者《ペルフェッチ/ペルフェッチャ》の背景シートの内容を、 

(正) セシルのプレイヤーは背景シート「完徳者《ペルフェッチ/ペルフェッチャ》」の背景シートの内容を、 

 ※閉じカギカッコがない


p.32 ガルニエ (対応するカードも同様)

(誤)育ちった 

(正)育った 

『モンセギュール1244』の歴史的背景に関する補足

文:エジオ・メレガ Ezio Melega

 このたびお目にかけるのは『モンセギュール1244』のゲーム中に繰り広げられる出来事の文化的背景に関するエッセイです。本稿は歴史学や人類学の講義ではなく、みなさんが開催するゲームのアイデアやインスピレーションの源泉となるものです。モンセギュール城塞やカタリ派の歴史についてさらに詳しい知見を得たい方は、末尾の参考文献をご覧ください。

 原注:『モンセギュール1244』は、殉教と棄教の狭間の葛藤を描き、みなさんが協力して創り上げる物語とキャラクターに焦点を当てるゲームであり、13世紀を忠実に再現することを目的としたものではありません。

 歴史上の出来事とは背景情報として活用されるべきもので、あなたの本当に大事に思っている物事について話す契機にすぎません。史実では、ピエール・ロジェ・ド・ミルポワは1244年3月16日に火刑に処され、その3日前に救慰礼《コンソラメンテ》を受けているわけですが、これはみなさんのゲーム・プレイを縛るものではありません。みなさんのゲーム・セッションでのピエール・ロジェは皮肉屋の傭兵で、さしたる躊躇もなしにカタリ派の信仰を棄てるかもしれないのです。

 ここにある情報は、みなさんのシーンをもっと豊かに、リアルで生き生きとしたものにするのに使ってください。あなたが大事だと思うこと物語を制限するような形では使わないようにしていただきたいのです。

 この章は2つの部分に大別されます。【物語】と【伝説】です。前者は日常生活や、人々が何をしてどのように生きたのか、彼らの社会や実際に起きた出来事について解説します。後者は、カタリ派の歴史を取り巻く、より曖昧で神話めいた伝説上の出来事についてみなさんに伝えるものです。


※ゲームに登場するキャラクターや要素への言及は〈〉の囲みで示しています。


訳注:以下の文章では、カタリ派の思想的背景として、「グノーシス主義」という言葉が頻出します。グノーシス主義は、初期キリスト教と同時期に地中海沿岸に発生し、1 ~ 3 世紀頃に隆盛した多様な宗教思想の総称です。人間は本来的には至高神の一部だとし、その本来の場所へ立ち返らねばならないという「認識(グノーシス)」を得ることを最も重視します。極端とも言える霊肉二元論が特徴的で、旧約聖書の創世記に対し創造神を抑圧者として描くことで救済の神(至高神)を創造神と別のものとするなど、既存の価値観からの逆転も見られ、新プラトン派と呼ばれる思想的潮流にも通じます。Gnosticism(グノーシス主義、またはグノーシス派)という言葉は、キリスト教内のグノーシス的異端を指して使われることもあります。

【物語】異端カタリ派

 〈セシル〉〈レーモン〉〈アルセンド〉〈エスクラルモンド〉といった『モンセギュール1244』に登場するキャラクターはいずれも、異端カタリ派と呼ばれる信仰にどこかしら繋がっています。熱心な信者なのかもしれませんし、あるいは精神的な面での関わりはうわべにすぎないのかもしれませんが、彼ら各々にとって、カタリ派への信仰は他の数百人の仲間とともに、火刑に処されるか、あるいは自らの理念に背く棄教の誓いを行うかという結果をもたらす、一連の事件の原因となるものでした。しかし今日では、この謎に満ちたカタリ派が実際はいかなるもので、彼らがどのように生き、それほど深く信じたものが何だったのか、把握している人はほとんどいません。

 カタリ派は、中世盛期という荒みきった数世紀の出来事における中核であり、現代の歴史や報道でもよく言及されます。ときには聖職者の腐敗に対する反抗として、ときには暴力的な狂信者として、聖人、苦行僧、あるいは精妙なカトリックの神学を理解できない無学な農民として解説されるのです。

 彼らの名称すら推論によるものです。彼らは自分たちをカタリ派とは呼んでおらず「善き人々」や「善きキリスト者」と呼んでいたものと思われます。全ヨーロッパでいくつか別の名前が使われています。バルカンでは「ボゴミル派」、ピレネー南部ではワルド派と一緒くたにして「アルビジョワ派」、田園部では多くが(〈セシル〉のように)就いた職業から「機織り」、そして〈デュラン〉のような狂信的な異端審問官は「アリウス派」や「マニ教徒」のごとき大昔の(誤用である)名称すら持ち出しました。ダンテは、カタリ派信者のファリナータ・デッリ・ウベルティについて述べ、彼を「エピクロス主義者」と呼んでいます。歴史家の仕事はこれら膨大で溢れんばかりの名称に煩わされ、ある名前がカタリ派の一地方における名前かそれとも完全に別なものか、往々にして識別できない状態に陥ってしまいます。

 幸運にも、再注目される原典が増えており、カタリ派をより客観的な視点から検討する好機がもたされています。例えば、私たちはこの異端とされる宗教が東方、ビザンティウム以遠に由来し、古のグノーシス主義に繋がりがありそうだとわかっています。カタリ派は、人が天に昇り神と邂逅することができる、ときには神の精髄の一部になれると信じていました。全天使の3分の1の魂を捕縛し、悪魔《サタン》が創造した肉体の世界でこれらの魂を人の姿に変えて神性から引き離すことによって、悪魔の反逆はなされました。修行、「祈り」(大文字でPrayingと強調されています。というのは、カタリ派にとって祈りはただの1種類しかないからです。天使が歌い、現在でも世界中で使われる「主の祈り」のみなのです)、そして救慰礼《コンソラメンテ》を通じて、天使の魂は天国へと帰り、再び神と合一できるのです。彼らは単に天なる神を観想するだけではなく、神の精随を放射し超越的な性質を帯びる全き天使に、もう1度生まれ変わろうとしています。

 カタリ派の教義は非常に複雑なものでしたが、それにもかかわらず、この異端とされる教えはあらゆる社会階層の隅々まで速やかに浸透していきました。完徳者《ペルフェッチ/ペルフェッチャ》はその禁欲的な節制、単純明快で伝道に適した原理により崇拝を集め、カタリ派の信仰は既存の体制や秩序に取って代わるべき妥当性があるとみなされるようになりました。教会の権威に基づく支配と徴税に縛られずに済むことは、農民や貴族や商人を一様に惹きつけました。またカタリ派は宣誓もしなければ(宣誓は封建社会の構成原理でした)、過去の宣誓を有効なものだともみなしませんでした。破門されたり偽誓による汚名を受けたりした貴族は、領主や臣民の信頼を失うのが常でしたが、何とかしてカタリ派の信徒となり、カタリ派が直接的にではないにしろ形成した新たな秩序の一部になれば、必要とする社会的な支援をまだ受けることができたのです。

 神聖ローマ帝国はカトリック教会との終わりなき権力闘争において、この潮流を利用しようとしました。同じことを多くの下級貴族も試みました。例えばフランスの有力な貴族で〈アルセンド〉の親戚でもあったトゥールーズ伯もその1人でした。異端カタリ派は燎原の火のごとく広がり、ヨーロッパ全域で見られるようになりました。彼らの城塞は、教会に対立する地域において、ときの世俗権力との同盟を結ぶ場所でもありました。トゥールーズ伯の土地において、あるいはドイツで、セルビアで、そして北イタリアの非常に多くの自治都市《コムーネ》でも、カタリ派と世俗権力は手を結んでいたのです。

 カタリ派は組織として非常に強固で、ヨーロッパじゅうの兄弟姉妹と連携を取り続けることができました。完徳者を育むカタリ派の信仰のあり方は真にあるべきキリスト者のものとして受け止められ、キリストその人に教えられた「祈り」と霊的な洗礼(救慰礼のこと)を兼ね備え、洗礼者ヨハネに教えられカトリック教会が実践している水での洗礼に真っ向から敵対するとみなされました(カタリ派は洗礼者ヨハネを、信仰ではなく魔術の儀式を伝えた悪魔の申し子と信じていました)。完徳者は「性行為に由来する」いかなるものも口にせず、これはつまり、卵も肉もチーズも食べないということでした。魚もおそらく禁止されていたでしょう。司教は完徳者のなかから選ばれ、カトリックにおいて該当する職位がそうであるように、イタリアやフランスの司教管区全体を統治し管理しました。彼らは完徳者から2名の副官を選び、「年長の子」および「年少の子」と呼びました。〈ベルトラン・マーティ〉は当初「年長の子」でしたが、後にトゥールーズの司教になります。

 カタリ派は長年にわたりカトリック教会から寛容に扱われていましたが、その間、修道院は全員が完徳者で構成されていました。これが、かの教派の影響力でした。発端から滅亡まで、カタリ派はずっと完徳者の活発な共同体を有し、そのため2人1組での説教を行えました。共同体の1つに、モンセギュールの麓で、レディ・フォルネリアこと〈レーモン〉の母によって創設されたものがあります。カトリックとカタリ派のあいだには何かしら共通の基盤があったのでしょう、というのは、モンセギュール包囲戦から遡ること150年前、クレルヴォーのベルナルドゥスが彼らを称讃する言葉を書き綴っているからです。

 ここには中世の人々を強く惹きつける何かが、今日を生きる私たちには理解し難い何かが、確実にあったはずなのです。『モンセギュール1244』に登場するキャラクターに、〈ベルナルド〉という、ベジエから逃げてきたキャラクターがいます。ベジエはカタリ派の街ではありませんでしたが、カタリ派とカトリックが融和のうちに暮らしていました。十字軍の来襲時、カトリック系の住民は異端者たちの引き渡しを拒み、戦争と死を余儀なくされました。カルカッソンヌの陥落後、カタリ派は放逐されました(服を奪われたものの、幸いなことに8月でした)が、アルビジョワ十字軍による危険があるのに、彼らは他の街に拾われた模様です。モンセギュール陥落の際にこれほど多くの人々が殉教を選択した理由は謎に包まれています。現代の物質主義的な合理性に基づく文化(完徳者がこれを知ったらぞっとするようなもの)の見方では、カタリ派の説教が13世紀人に引き起こした感情を充分に理解することができません。ゆえに私たちは、怜悧な理性を脇に置いてから、自分たちがすでに属していない世界へと足を踏み入れる必要があるのです。

【物語】中世の戦争:包囲、襲撃、強奪

 子どもに中世を説明してと言ったら、返ってくる答えは、城、鎧、騎士、剣といったキーワードからなるものとなるでしょう。これらの言葉はすべて中世の同じ面の一部で、戦争のことです。戦争はいつでも、中世の最も刺激的な部分で、私たちは長い千年紀を戦闘と侵略と包囲の連続だと捉えがちです。もちろん、実際のところはまるで異なるのですが、暴力は中世の鍵となる要素の1つではあり、『モンセギュール1244』も例外ではありません。

 戦争と包囲は、『モンセギュール1244』の出来事の背景を形作るもので、〈ガルニエ〉〈ベルナール〉〈ピエール・ロジェ〉〈レーモン〉と、男性キャラクターのほとんどは戦士で、戦があるからこそ仕事になります。戦争は儲かるものだったので、伝統的には暴力と結びついていなかったような人々も、ここに参入しようとしていました。〈マテュー・ド・ベルケール〉は戦闘司教、つまり僧兵で、これは現代のキリスト教からするとまったくのナンセンスですが、中世のキリスト教では普通のことでした。司教とは主として土地の所有者で、武器を取り私兵を率いたものですし、主教冠より武器を愛した教皇がいるのも有名です。逆説的ですが、彼らにとり武装とは社会的な立場の高さを含意し、修道会に属する騎士あるいは聖職者として、また周囲の文化環境のため、賢く有能な策士とならざるをえなかったのです。テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団といった武装騎士団においては、この傾向が顕著でした。

 中世の初期から後期に至るまで、戦争とは仕事で金銭を稼ぐ手段でした。

 戦争は本職の戦士が闘うもので、一般市民が武器を取ることは稀でした。というのは兵役がなく(国土回復運動《レコンキスタ》中のスペインは例外ですが)、戦士は経済的な事由で闘っていたからです。戦争は財産を得る最も手っ取り早い方法だったのです。

 最も高貴な騎士ですら、戦場での略奪行為を軽蔑などせず、敵をすぐ殺すのではなく捕虜にして後で身代金を要求していました。軍勢が敵の戦線を破ったとき、この軍勢が最初にやったのは、敵指揮官の天幕から調度品や金や武器を強奪することでした。〈アクトⅢ〉に登場する決死隊が城塞内から打って出たのは、純粋に経済的な理由ゆえかもしれません。分捕った武器や金銭は、包囲された面々があと数ヶ月持ち堪えるのに必要な補給物資を買いつけるのに充分なものとなりえたというわけです。

 中世の戦争を、相対する2つの巨大な軍勢の激突のようなものと考えてはなりません。軍隊は小規模で、ばらばらな数千人の男性からなり、規律はなく組織化もされてはいませんでした。ですから正面衝突するような戦闘が稀だったのも驚くべきことではありません。それでも戦局を担うのは、〈ギヨーム=アルノー〉のような騎士、つまり盾と鎧と槍で武装した重騎兵でした。完全武装の騎士1人で数十人もの歩兵を蹂躙できるため、早駆けする騎士が視界に入れば、歩兵の集団全体が衝撃のあまり逃走するほど恐れられていました。戦場へ出ることを望まない貴族は自らの領主に対し、兵役から免除されるかわりに、隊のすべてをまかなえるほど高額の税金を支払っていましたが、それは装備を揃えられる重騎兵はその税金ぶんの価値を有していたことをも意味します。

 もっともありふれた戦争のあり方は略奪を主とするものでした。経済的に重要な要素だったからです。両者の土地や物資が完全に奪いつくされる前に、攻撃側の歩兵部隊や騎士たちは敵の領土内で収奪を行い、防衛側は相手を意のままにしようとしました。戦いの雌雄を決する攻城戦とは、通常、城塞内の宝を強奪する(しかる後に、なかにいる人間の身ぐるみを剥ぐ)手段として行われたのです。

 年代記の編纂者は、行軍する軍勢は逸楽の国コケーニュ(怠け放題で贅沢に暮らせる想像上の楽園)暮らしのようだったと書いています。あらゆる本能が満たされ、あり余るほどの富が得られたのです。もちろん、病や負傷を生き延び、こちらを殺そうとしてくる味方をも何とかする必要はあったのですが。

 〈ギヨーム=アルノー〉のごとき身分の高い騎士にとっては、事態はもっと楽でした。彼らは金持ちで優れた装備を確保でき、しばしば殺されずに捕虜とされましたから、略奪と身代金で得られる収入をより確保しやすかったのです。彼らにとって、戦争はリスクの低い賭けでした。アルビジョワ十字軍のような聖戦は輪をかけて素晴らしいものでした。罪を犯しても赦されるのですから、まさしくやりたい放題だったわけです。多くの兵士が、魂の報いを受けることなどないという確信のもと、下劣な欲望に突き動かされ、最低最悪の暴力と強姦に夢中になっていたのです。

 軍隊の行軍は、参加者には多くの好機をもたらした一方、連中が通り過ぎる土地の人間にとっては(敵軍であれ味方であれ)悪疫でした。補給とはつまり略奪を意味しました。“対カタリ派十字軍”も例外ではなく、モンセギュールを十字軍が包囲した際、周りの地域は略奪を任された賊と悪漢で満ち満ちてていました。

 この戦争の経済的側面は〈ガルニエ〉や〈ピエール・ロジェ〉にも見て取れます。前者は傭兵で、自らの戦闘技能にもっとも高い金を出してくれる者のために戦いました。傭兵部隊が大規模な独自勢力となる時代はまだ先のこと、モンセギュールで戦ったのは(どちらの軍でも)無宿人や無法者の寄せ集めであり、この連中は平時にはごろつきで、戦時には軍に戦力を提供するかわりに金と略奪の許可を得ていました(中世の戦士は略奪許可をとるのに執着しました)。〈コルバリョ〉が持ち込んできた傭兵たちも、おそらく大差ないものだったでしょう。ろくに統制が取れてもおらず、規律の度合いはさらに低かった、ということです。

 〈ピエール・ロジェ〉は、十字軍によって財産を喪失しています。もしかすると異端審問官の手に落ちているのかもしれませんが、同じくらいありえるのは、ミルポワの地を荒廃させた度重なる略奪によって失われた、という可能性です。彼の故郷アリエージュのミルポワはモンセギュールからそう遠い場所ではありませんから、十字軍は〈ピエール・ロジェ〉を屈服させるために、彼の財産を使った可能性があります。

 気になるのは、ある土地への襲撃を成功させるために必要な知識はどれほど詳しいものだったのか、という点です。これは〈ウグ・デ・アルシ〉にとって悩みの種となったかもしれません。襲撃者は素早く移動し、また必要なら逃げのびるためにも、この種の知識が必要でした。軍の指揮官は地元の兵士や案内人を使わねばならず、ということは、実は敵軍と密かに昵懇でこちらの軍を罠に掛けようとしているかも、というリスクを甘受しなければならなかったことを意味します。いったん地元の者を使い下手を打ってしまえば、行軍は連鎖的に失敗してしまうかもしれないのです。

 中世における2番目にありふれた戦争の形態は、攻囲、包囲戦でした。戦士の集団が城壁の背後にバリケードを張り、もう片方はこれを突破しようとする、というものです。前者には戦術的な優位があり、補給品密輸が容易ならば(加えて支払える金銭の蓄え次第で)、何ヶ月も、あるいは数年でも持ち堪えることができました。本物の中世の城は威厳がありながら構造は単純です。外壁と、木と石でできた主塔が備わっているだけなのです。快適な生活に必要なものはほとんどなく、贅沢品は皆無で、目的はただ1つ、内部のものを護ることのみです。包囲戦とは根比べ、我慢比べでした。ときに籠城している側は出撃を試みたかもしれませんが、これは敵の戦線に穴を開けるためではなく、貯蔵品や捕虜を求めて敵の野営地を略奪するためでした。ときに攻囲側は投石機や破城鎚を使ったものの、ほとんどの場合、包囲戦の趨勢を左右するのは、もっぱら忍耐力と兵站でした。大半の城塞は反乱か、幸運にも成功した特殊工作によって陥落したのです。モンセギュールは後者でした。伝説的なガスコーニュ人の一団が壁を登攀し、東塔を征したのです。

 城は支配地域の確立と維持に欠かせないものでした。城はその土地の地勢を利用し、必要に応じ、きわめて迅速に建造されました。〈レーモン〉は、すでに十字軍が進軍していた状態でモンセギュール城塞を築く命を受け、難攻不落の砦を建てました。地の利を活かして攻囲側が城塞を完全に孤立させないまま、籠城側が容易に補給を行えるような砦。〈アクトⅢ〉での東塔の陥落が致命的だったのはこれゆえです。いまや十字軍は、モンセギュールの面々による補給線を寸断しつつ、完全な包囲網を敷くことができるようになったわけですから。

 かように強大な城に対抗するため、工学的な観点から攻囲戦が研究され、攻城兵器の建造に必要な知識と技術が追究されるようになりました。ゲーム中の〈ブラシヤク・ド・ラ・バクラリア〉のように攻囲工学に習熟した者は、張力、積載量、弾道を正確に見積もることができました。彼らはしばしば、自らの技能を能う限り高く売りつける先を求め、ある貴族から別の貴族へと渡り歩いていました。

 繰り返しになりますが、戦争と経済は切っても切り離せない関係にあり、戦争をすれば儲かるというのは明らかでした。この点では結局のところ、中世も現代もそう違いはないのかもしれません。

【物語】『モンセギュール1244』での日常

 往々にして一顧だにされないのですが、中世史の要素は戦争に限ったものではありません。一般人(農民や職人や商人やその他もろもろ)はどう生きたのでしょう?

 彼らの立ち居振る舞い、生き様、人間関係、暮らした世界は、今日とは大いに異なります。

 理解を深めていただくよすがとして、固ゆで卵《ハードボイルド・エッグ》を1つ用意してみましょう。現代では簡単に作ることができますよね?

 では、あなたが鉄鍋もガスコンロも持っていないとしましょう。代わりにあるのは木炭と、古い銅鍋なので、これを使ってお湯を沸騰させます。さあ卵を入れて……お待ちあれ、時計なしで何分経ったかわかりますか? 試してみてください、ブニョブニョした卵や茹ですぎの卵を5つほどこさえた後、この時代の日常生活が、こんな些細なことですらいかに異なるものだったかを知ることになるのは請け合いです。

 〈コルバ〉を例にしましょう。彼女は城の女主人です。貴婦人ですから、私的な収入で生活でき、自由時間を持て余し、あるいは公務で忙殺されている、とお考えかもしれませんよね? 間違いです。

 中世の経済で回る生活物資は最低限のものだったというのを、耳にされたことがあるかと思います。資源と労働力は生活に必要なものを生産するのにギリギリ足りている程度でしかなく、余剰はほとんど、あるいはまったくなかったのだと。〈コルバ〉もまた、自分で自分の仕事をせねばならなかったのです。

 もちろん、彼女は畑で鋤を握っていたわけではありませんが、自分の衣服を縫っていたのは間違いありませんし、〈セシル〉や他の平民とともに、モンセギュール住人全員の衣服も裁縫していたことでしょう。

 こうした労働をともにする女性たちについての描写から、現代と中世の生活様式におけるもう1つの違いが垣間見えます。実質的にプライバシーはなかったということです。とりわけモンセギュールのような(防衛を目的とした城という)場所ではそうでした。

 砦は陥落後に激しく略奪されたので、往時のモンセギュールがどうだったのか推測する考古学的な手掛かりはわずかしかないのですが、ポグ・ド・モンセギュール(モンセギュール山)の北側で見つかった廃墟から、カタリ派信徒の暮らした家々については容易に想像できます。家とは小さな建物で、地元の石材で作られ、止まり木に乗る鳥のごとくに丘の斜面に建てられており、壁に囲まれ、中心となる要塞の周りに集まっていました。

 これらの家々は、100平方メートルほどの床面積があり、3階建てか4階建てで、丘の斜面に寄りかかる形で建てられました。部屋は非常に小さく、窓はほとんどなかったので(ガラスは贅沢品でした)暗く、冬の間は脂でなめした獣皮で覆われ、人々や動物はそのなかで暮らし、補給物資も収められていました。中心部の城塞へと通じる、細い曲がりくねる道を想像してみましょう。家の側壁が外壁となり屋根が道として使われていたことでしょう。

 武器や食料といった価値のあるものは、城塞に保管されていたものと思われます。貯水タンク、腐敗しやすい食料、財宝は地下に、貯蔵庫(酒や食料等の保管場所)は1階に、出入口は2階といった具合に(格納式のハシゴからしか出入りできないようになっていました)。そしてみなが食べ眠り働く共同部屋がありました。動物は人々とともに生活していました。家々の周りを山羊や鶏がうろつくのは、ありふれた光景でした。牛は、もしいたらの話ですが、はるかに価値があるため、城塞内で世話されていたでしょう(城塞内で飼うのは、急峻な丘を降りるのはきわめて困難だと牛たちに悟らせるためでもありました)。豚は、包囲が開始された年の冬に、餌をやらないで済むよう食肉に変えられていたはずです。怒りっぽく危険なマスティフ種のような犬はどこにでもいました。

 私的な空間というのがあったとしても、プライバシーはないに等しく、人々は寿司詰めになって一緒に暮らしていました。〈ピエール・ロジェ〉と〈ガルニエ〉は、貴族の身分だったにもかかわらず、他の全員と同じように暮らしていたはずです。〈レーモン〉や〈コルバ〉とその家族ですら、真にプライベートな部屋というものは持っていませんでした。使える空間があれば使うようにしていたため、2つめの共同部屋か、あるいは2階に2部屋かそこらのより私的な空間があったかもしれませんが、それだけでした。

 これらのあらゆる人々や動物と、日中は生活や労働の場所だった狭い空間でともに夜を過ごすことを想像してみてください。人々はゲップをし、いびきをかき、性交に耽り、排泄しています(中世の男性は私たちが抱きがちなイメージよりもずっと清潔でしたが、トイレは存在せず、また雪の降る晩に外出するのは肺炎への罹患を意味し、死に繋がるものだったので、悪臭に耐えるほうがずっとマシだったのです)。建物に入ったひびは、ピレネー山脈の寒く凍てついた風を防ぐため、脂でなめした皮により塞がれていました。

 平民か貴族かを問わず、城塞で過ごす日常に彩りをもたらすものの1つが乱交でした。モンセギュールのように人の住むところでもそうでしたし、より単純な、防御壁と砦のみで構成されるような場所でもそうでした。娼婦の〈アルセンド〉は、家畜小屋(動物の熱で身体を温めるため)あるいは壁の隅で職務に励んでいたでしょう。彼女が家(あるいは部屋)を持っていたら、その家も同様に、彼女があらゆる細々とした日用品を置いておき、少しばかり動物も住まわせていたかもしれません。あなたがゲームで運用するモンセギュールにはプライバシーの概念があるとするなら、彼女はカーテンや仕切りを使い、共同部屋や家の外で仕事をするでしょう。小さな城塞では、ほとんどの物事は外ですべきもので、性交も報酬の介在を問わず、例外ではありませんでした。

 鍛冶場や調理場のように、特定の目的のために設計された建物もありましたが(火事ができるだけ起きないようにするためです)、娼婦専用の寝室というのはまず存在しなかったでしょう。

 経済については、銀貨はいくらか流通していたかもしれませんが(トゥールーズ伯かアラゴン王が鋳造させたものです)、稀なものだったでしょう。〈アルセンド〉は食料をもらったり、他に何か便宜をはかってもらったりする形で支払いを受けていたものと思われます。同じことは、女性の機織りから鍛冶仕事まで、他のあらゆる職について言えます。〈レーモン〉との事前の合意に基づき、仕事や技能を提供し、権限や保護や食料を得るのです。貨幣は、このコミュニティの外部で暮らす人間のために取って置かれました。外部とは例えば傭兵のことす。傭兵を買うために、モンセギュールの財宝と、きっと〈アルセンド〉の身体も使われたことでしょう。

 日用品や戦士の武器についても、同じく余分なものはまるでありませんでした。衣服は実用を旨とし、亜麻や羊毛や麻で作られました。これらは丈夫で、修繕もしやすいものでした。織物は原材料の段階から地元産でした。〈コルバ〉や〈フィリッパ〉の監督のもと、若い女性たちは、複数の巨大な織機が置かれた専用の部屋で働いていました。経験豊富な年長の男女が取り仕切る場所で、おそらく〈セシル〉は指導者の立場に就き、それを活かして長い労働のさなかに、カタリ派の信仰を説いて聞かせたことは間違いありません。1つの織機につき、必要な糸を供給するために10人かそこらの紡ぎ手が要ることに鑑み、この機織りの場(城壁に面して建てられた小屋だったかもしれません)にあった織機の数は最大で5つといったところでしょうか。小型の織機が個人の家にあちこち分散する形で置かれていたという可能性もあります。

 これらの織機により、縫い合わせて服にするための布地が生産されました。織物は、作り出すには長く厳しい労働を要するため、高価で相応の値打ちがありました。男性はきちんとした長靴下を履き、レザーの締め紐を備えたダブレットかシャツを合わせ、その上から別の色のサーコートを羽織ることもありました。帽子は袋の底を加工して作られました。貴族の場合、靴はレザーとクロースから作られたもので、平民の場合は、靴は木靴か、馬の足裏にあわせて縫われたレザー・ブーツでした。髪は肩に届くほど長く(戦時の兵士の場合は違ったかもしれません)、髭は剃っていました。女性の衣服は、特に貴族の場合、もう少し込み入ったものでしたが、それでも通常はシンプルな白いベストの上に、(しばしば色染めがされた)別のベストと裾のないサーコートを羽織っていました。2揃いよりも多くの服を持っている者はほとんどおらず、〈フィリッパ〉や〈アルセンド〉のように流行に敏感な女性ですら、衣服を新調するのは年に1回程度でした。賢明な解決策として、袖の付け替えがなされました。〈フィリッパ〉はベストを終日、肉体労働に従事する間ですら着用しており、この衣服を護るためにエプロンを使うか古い袖を付けて、あるいは上着なし《シャツスリーヴ》で、つまりインナーのベストの袖を出す形で働いていたかもしれません。そして1日の終わりには、上質の袖を付けて、夫である〈ピエール・ロジェ〉の帰りを出迎えるわけです。

 毎日の生活は、日の出と日の入りによって区切られました。1日は12時間ずつに分けられ、昼夜の長さは季節によって変わりました。

 城塞には鐘があり、これを使って節目となる時間、例えば昼食や宗教的な奉仕の時間を共同体へ知らせたはずです。女性たちは紡ぎ織り縫うのをやめ、厚い木の板を支えに載せてテーブルにしました(この厚板は熱を逃さないよう、壁に立てかけられていたものです)。この城塞の女主人である〈コルバ〉は、この準備を仕切っていました。

 昼食は愉快な時間でした。貴族と他の要人は別のテーブル(ハイテーブルで、文字通り他よりも一段分高くなっていました)で食事をとりました。犬はどこにでもおり、餌を求めて吠え、人々が床に投げ棄てた残飯を巡って相争いました。領主と城塞の女主人の間に生まれた未婚の娘〈エスクラルモンド〉が、台所と食料の準備を監督していたことでしょう。食事は生暖かい状態で食べられていました。というのは、火事のリスクを避けるため厨房は城塞から離されており、大きな木の皿かパンの固まりに載せて供されたものを、二人でシェアして食べるものだったからです。食器(木製)は贅沢品で、食料を鍋から皿に移すために用いられはしましたが、口へ運ぶには使われませんでした(食事は通常、あらかじめカットされた状態で供されました)。

 〈レーモン〉ら貴族の食事を、〈ガルニエ〉ら平民のそれと一線を画すものにしていたのは、メニューの種類でした。ハイテーブルには、確保できればワインが連日のように供され、肉が出てくるのも普通でした。これに加えて全員が、熱い石炭で調理され地元のハーブで味付けされたデンプン質の食料と魚を食べていました。山羊や羊のチーズは特によく配膳されましたが、誰もがパンを主食としていました。私たちがふだん食べているパンとは違い、小麦粉のかわりにライ麦がしばしば用いられ、色黒く酸味がありましたが、とても栄養がありました。容易に運搬できるよう、真ん中に穴のあいた丸い塊の形で焼かれたはずです。

 むろん、『モンセギュール1244』で描かれる特殊な状況において、肉食を認めなかったカタリ派の完徳者もいたわけで、上記の標準的な食事のあり方は必ずしも成り立たないものでした。

【物語】女性:娘、母、娼婦

 私が初めて『モンセギュール1244』をプレイしたときは、女性キャラクターの多さに衝撃を受けました。〈アルセンド〉〈コルバ〉〈セシル〉その他の女性は、複雑な人間関係の核になっています。これは異様に目立ちます。中世について考える際、人は普通、戦争や戦士や聖職者や教皇について考えるもので、女性の役割は誰かの母や姉妹や娘として、十字軍の旗に描かれた聖人に限られていました。シエナのカタリナやジャンヌ・ダルクといった人々を例外と考えるのは、中世が男性だけの歴史だったという発想を強化するものです。

 中世の女性について考えると、いくつもの矛盾が見つかります。聖職者は女性を諸悪の根源だと説教しますが、しかる後にマリアを天界の扉として称揚します。カタリ派は肉欲の罪や出産に本来備わっている悪を語りますが、女性も完徳者や司教になることができます。貴族は女性を土地よりも価値の低い資産とみなしますが、騎士道の理想においては女性を讃美します。

 これでは中世における女性が担わされた真の役割を理解するのは困難になります。当人は中心から外され、誰が彼女を従属させるのか選ぶことにこそ女性の意味は限定されます。〈セシル〉のように修道女になり聖女として処女のまま一生を終えるのなら彼女を従属させるのは神であり、〈コルバ〉や〈フィリッパ〉のように妻となるのなら彼女を従属させるのは夫です。トスカーナ女伯マティルデのような権勢を誇った女性ですら、その力を強固にするため、数回の結婚が必要でした。にもかかわらず、当時の法において結婚とは等価交換で、男女は同じ義務と権利を与えられているとされました。

 〈コルバ〉や〈フィリッパ〉のような女性は城の貴婦人であり、騎士道文学の文脈では称揚されます。当時においてすら、現実逃避のための文学作品は存在し、そこに出てくる微笑みを絶やさず、夫の戦支度を見守る貴婦人という発想は端的に幻想というほかありませんでした。本当のところはブランスヴィック公爵夫人が、城に幽閉され夫から黙殺された自身の隠遁生活につき、世棄て人に準えて書き残したものにずっと近いでしょう。

 真実を探り当てるためには、当時の法律を学ぶ必要があります。女性は男性同様、土地を所有できましたし、世襲財産の相続も完全に行えました。また、女性が自らの完全私有地を嫁資として夫に譲渡した場合も、その夫が死ねばこの再び女性の所有物になるか、少なくとも、息子たちとの管理権が与えられました。親が決めた結婚というのは我々が考えるほど悪いものではありませんでした(最高位の貴族は例外ですが)。娘のために最良の相手を見つけようとしない父親は譴責の対象になりました。〈エスクラルモンド〉のために最高の婿を探そうとする〈レーモン〉が想像できます。察するに〈ピエール・ロジェ〉と〈フィリッパ〉は若い頃に結婚し、一緒に年輪を刻みつつ互いを知るようになったのでしょう。

 実際のところ、女性はしばしば、家の資金の出納役を担いました。とりわけ、都市に住む職人や商人ではそうでした。夫の不在の間、中世の女性は夫の責務を預かるので、彼女は中世の複雑な作法に熟達し、礼儀正しいホスト役になり、経済的あるいは政治的な同盟関係を差配し、畑を管理し、命令書を執筆して実行に移し、極端な場合は、戦争を捌かねばなりませんでした。そのため〈コルバ〉は、この包囲戦における本当の中心人物だった可能性があります。男達が戦っている間、彼女はモンセギュールの資産の管理責任者だったのであり、それこそがこの包囲戦の勝敗を分かつ真の闘いだったのですから。

 ですが、この力は一時的なものにすぎませんでした。女性が権力を行使できるのは、夫か息子の名において行動する時だけでした。女性は城塞を運営はしていても、夫や父に従属していました。女性は土地を所有できるものの、彼女が若ければ、男の親戚が婚姻によって政治的あるいは経済的な同盟関係を強化しようとするでしょう。

 より自由を享受している女性を見つけるには、社会のヒエラルキーを下り、女性の社会的重要性を増す必要のある階層へと行き着かねばなりません。卸売商人や小売業者はしばしば女性で、同じことが、羊毛処理や他の織物業での、雇われ労働者についても言えました。ですが、ここにもジェンダーの階層分化があって、女性がギルドや商会への入会を認められるのは稀有なことでした。他方、女性は往々にして複数の職能があったものの(ほとんどの男性とは逆です)、ときに彼女たちは上位層への不参加を選択せざるをえませんでした。というのは、商会は構成員に、単独の職能へ完全に専念するよう求めたからです。複数の職能に関する知識を有していたため、女性はしばしば、見習いに対して基本を教える役となりました。イングランドでは、夫と異なる職業を営む女性は法的に別個の人間として取り扱われ、どの男性からも独立し、大いに尊敬を集めました。この図式は1つの理想形で、同時代の文学を典拠とするステレオタイプとは異なったものだと言えます。

 女性の生活が私たちの普段考えるものとは違っても、楽だったわけではありません。女性の給料は男性よりも削られているのは歴然でしたし、上流階級の女性ですら、常に生活困難のリスクに晒されていました。生活が困難になれば、女性は往々にして、犯罪に手を染めざるをえませんでした。窃盗、盗品売買、それから言うまでもなく、売春です。〈アルセンド〉が好例です。彼女はまだ若く、養うべき家族がおり、乱暴された経験があることから良縁に恵まれなかったことでしょう。社会的な見地から言えば、彼女は困窮させられ頼るものもない状態に置かれているわけです。

 中世の女性が男性から独立して自身で政治的・経済的な力を得ていたとしても、暴力に対しては無力でした。『モンセギュール1244』の時代と場所においては、若い未亡人は恰好の獲物であり、村の若者は徒党を組んで襲って強姦し、無理やり結婚してしまっていました。ですから保護してくれる男性のいない女性にとっては、時には売春こそが、唯一の自衛策でした。顧客による庇護を得ることができたからです。

 「秘密の女」として知られたこの種の娼婦はどこにでもいました。田園部にも、都市にも城にも。後者はルネサンス期の愛妾の概念に近いものになっていきました。身持ちが悪い女性と思われつつも、社会的役割を認知され認められていたわけです。ときに、これら「秘密の女」は、〈アルセンド〉がまさにそうであるように、戦争で困窮したか、または主君の没落した、下級貴族の家柄に属していました。彼女たちはそれまでの人生の全てを宮廷で過ごしていたので、やり方は異なれども引き続き同じところに属すほかなかったのです。

 都市に生き、宿屋や娼館で働く娼婦は、しばしば彼女を搾取する男性からの恐喝に遭い、強制的に借金を作らされました。今日でも起きているのと似たようなやり口です。軍勢についていく野営追行者の女性の待遇は輪をかけて劣悪でした。ですが、修道院をモデルとした、一応は民主的な規則のもとで娼婦が自主管理する娼館も存在し、そこで女性は、例外的に、本当の意味でプライベートな空間を持つことができました。とはいえ、わずかな自由と尊厳を天秤にかけてなされる苦渋の選択という点では、現代と変わりないものでした。

【物語】中世における子ども

 歴史とは、国や大陸や偉人たちの関わる事実や事件の経過についての果てしない連続であるかのように見えます。ざっくりとした形であれ子どもの歴史を語るのが難しいのはこれが理由です。何世紀にもわたり、子どもは単に無視されており、幼年期を含めライフステージのどの時期にも関心が持たれるようになったのは、ごく最近のことです。

 『モンセギュール1244』の時代は、子どもが大人の関心の対象になりはじめた時期です。このゲームは〈ファイユ〉や〈アミエル〉を登場させており、子どもは常にそこにいるのだ、仮に不可視化されていたとしても……ということを私たちに想起させます。

 子どもたちと幼年期に関する見方も、中世において典型的にそうであるような、数多の矛盾から免れるものではありあません。

 一方では、聖ニコラスに関する伝説(サンタクロース伝承の原型)や、無辜嬰児殉教の日(12月28日)や、イエスをおもちゃで遊んだり母乳を飲んだりする子どもとして描いた宗教画に示されるような、子どもに対する強い関心があります。他方には、幾千の浮浪児を少年十字軍への参加に追いやった育児放棄や、増え続ける数の捨て子受け入れ施設といった実例があります。教会の指導者層にすら意見の相違がありました。子どもを悪意に晒されていない純粋な存在で世界が望んだものとみなしていた指導者がいれば、子どもは欲深く自己中心的だと指摘する指導者もいました。

 カタリ派も例外ではありません。彼らの教義では、新たな魂が受肉することを悪だとみなしており、おそらくは妊娠中絶も実行に移し、新たな魂が物質の世界と肉体という器から解き放たれて救われる機会を喜び、歓迎していたものと思われます。

 〈ファイユ〉と〈アミエル〉の人生は、現代の子どもとは比べられません。彼らの幼年時代は短く、大人に頼ることはあまりなく、それはアルビジョワ十字軍だけのせいではありませんでした。

 子どもは真の意味での思考や理性を持つことができない、というのが当時の社会通念でした。最悪の場合、子どもは残りの家族にとっての重荷と考えられる事例すらありました。現代的な形での家族愛や親子の情といったものが、小児科学の考え方や子どもへの教授法とともに広がりはじめてはいたものの、これは所与のものにはなっていませんでした。幼児の死亡率はきわめて高く60%にまで達しており、絶え間なく妊娠していたにもかかわらず、当時の夫婦が4人以上の子どもを持つのは珍しいことでした。

 子どもは7歳になったら自分の頭で考えられるようになったとみなされ、行動に責任が伴うようになりました。これはつまり、大人の法で罰されるようになり(火刑に処されることも含まれます)、婚約を結べるようになり、労働や専門教育が開始することを意味します。子ども時代は通常、少女なら12歳、少年なら14歳で終わります。〈ファイユ〉と〈アミエル〉はきっとこの時期でしょう。この段階の子どもたちは、不完全な大人として見られました。家族や社会は、この年代の人間の能力をあてにせず、この段階をなるべく早く終えて大人になることをひたすら推奨していました。

 おもちゃは珍しく、遊びはさらに少ないものでした。

 7歳になると、子どもは勉強と労働を始めます。(未来の)騎士となる訓練をしたり、職人の見習いについたり、入信者の請願を行ったりするのです。成長の時間は短く、世界は苛烈でした。14歳の少年は一人前の男とみなされ、父親の商売を継いだり、戦いで討ち死にしたりしました。一方で12歳の少女は、父親が見つけた最良の相手と結婚し、ほどなくして初めての子どもを妊娠します。幼年期は短く、青年期は存在しないのでした。

 子どもが実親によって育てられないのはままあることでした(このゲームでも子どものキャラクターたちはそうです)が、これは必ずしも、親の死が原因というわけではありませんでした。貴族が子どもを親戚や自らの主君の家に送り込むのはごく当たり前でした。これには政治的な意味があり、というのも養父母になることで子どもやその親とのコネや友誼を強化し得えたからですが、これはまた、教育の経験を共有し、親交の絆を形作るものでもあって、一緒に育った子ども間での信頼関係は封建制に欠くべからざるものでした。かように貴族の子どもは同盟を築く道具とみなされ、多数の王や公爵が幼年時代を実家から遠く離れ、別の貴族家の客人あるいは人質として過ごしていました。

 低い階層ではこのようなことは起きませんでした。望まれない子どもや孤児は、僧や尼僧が受け入れてくれるかも知れないという期待をかけ、僧院や尼僧院へ置き去りにされました。これらの子どもは修道生活献身者として知られ、中世の多くの聖人や知識人はこの層から生まれています。この慣習を野蛮とか非人間的とかいっても仕方ありません。多くの家族にとってそれ以外に生き延びる道はなかったからです。困窮した召使いや農民で新生児を育てられない者は、ただ森に棄てていました。こうした捨て子を献身者とすることで、子どもに生き延びる可能性を与えようとしたわけです。キリスト教の教えは、「異端から解放された」子どもの面倒を見ることも要求していました。多くが献身者となりましたが、孤児を養子にすることは善行とみなされましたから、往々にして彼らを――〈アルセンド〉のように――引き取ろうとする縁者もいました。

 〈ファイユ〉と〈アミエル〉は最終的には、カタリ派でもなくカトリックでもなく、親類の庇護を受けています。〈アミエル〉は、彼を見習いとして引き受けられたであろう男性ではなく、女性によって育てられていました。これはかなり奇妙で、というのは当時、兄弟を引き離さずにおこうというような配慮はほとんどなかったからですが、彼らが例外的な状況に置かれていたから、ということなのかもしれません。

 モンセギュールの城壁の内側では、娼婦と戦士が肩のぶつかるほど近距離に密集して暮らしており、現代人にとって不条理なほど、子どもは迅速に成長し責任を負えるようになるのを強いられました。〈ファイユ〉と〈アミエル〉が実のところどのような人生を送ったのか想像するのは難しいのですが、けれども私たちは、彼らのような子どもが成長し、尊敬を集める聖人や戦士になったことを知っているわけで、この事実こそが、こうした困難に対峙した子どもたちが強さや勇気を発揮することの、はっきりとした証拠かもしれません。

【伝説】聖杯:杯と石と血

 カタリ派やモンセギュールと同じルーツを有する中世ならではの伝承が、少なくとも人々の集合的無意識のうちにおいては、復活してきています。聖杯《ザ・ホーリー・グレイル》伝説のことです。

 古代プロヴァンスの小説から現代のスペキュレイティヴ・フィクション(SF・ファンタジー・ホラーの総称)に至るまで、この聖杯についてたくさんの本が書かれてきました。これら想像力豊かな書物のおかげで、この神話は何世紀も残存し続け、同時に、少しばかり深掘りすれば判明したはずの歴史的真実は捻じ曲げられてきました。この聖杯という考え方の来歴や、もとは何を意味していたのかを論じるのは難しくなっています。

 今日では、誰もがこの聖杯は「最後の晩餐で、キリストの血を受けるために使われた杯」だと知っています。ええ、これは後代の伝承です。この聖杯について最初に書いたのはプロヴァンスの作家クレティアン・ド・トロワで、彼は単なる大皿として描きました。奇跡をもたらしたのは皿に受けられた中身(つまり晩餐のホスト)の方だったということです。数年後、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが聖杯について書き、石だと描写しました。13世紀初頭、ロベール・ド・ボロンがキリストの血を受けた杯を再登場させました。これらの伝説は英国の神話に由来すると考える人もいます。『マビノギオン』として知られる詩集に、いかなる病も癒す大釜について書かれた作品があるからです。一方で、聖杯はひとえに中世キリスト教の伝説だと信じる人がいます。ジャムシードの杯というよく似た特徴を有する物語がペルシアにあると指摘する人もいます。1980年代には、語源に関する誤った解釈から、キリストとマグダラのマリアの子孫を聖杯に見立てる想像たくましい解釈が見られるようになりました。最後の説はその後、著名なベストセラーの元ネタになりました(訳注:原著が2003年に出た、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』のことと思われます)。

 これが『モンセギュール1244』に何の関係があるのでしょうか? 〈シーンカード〉のには〈聖杯〉というものがあります。ここには前述のマグダラのマリアにちなんだ仮説も含まれていますが、輪をかけて大事なことがあります。モンセギュールはこの伝承を研究する者にとって鍵となる土地の1つなのだということです。

 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは『パルジファル』において、聖杯が守られている城について書きました。彼はこの城を「モンサルヴァート」と呼んでいます。これは「モンセギュール」(安全な/守られた山)と同じ意味です。『パルジファル』と「ペレーユ」の両者に――後者は〈レーモン〉の家系のことですが――繋がりを見る人もいます。エッシェンバッハより少し後の時代におけるドイツ語詩人アルブレヒト・フォン・シャルフェンベルクは、「ペレーユ」を最初の聖杯の騎士だと書いているのです。

 この類似から、しばしば、モンセギュールは聖杯が隠されている城塞とされ、また、エッシェンバッハは意図して本に聖杯のありかを記し、これによってカタリ派をその守護者と示唆したのだ、という人もいます。ナチスの唱えたオカルトを真に受けた者らはそう信じ込んでおり、1944年3月16日(カタリ派の火刑から700年目の記念日にあたります)、風変わりなオカルト的シンボルを模した隊列を組んだドイツの飛行機が、モンセギュール上空を飛び回りました。

 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは決して聖杯を盃として描かず、空から落ちてきた岩、つまり隕石、ラピス・エクシリス(中高ドイツ語で「星の石」)として描きました。神はこの隕石に、堕天使ルシファーの反逆のあいだ中立の立場を選んだ天使を幽閉したのです。この話で描かれるような聖杯なら、いかなる具合にカタリ派と関係するかを看取するのは容易です。なぜ物質の世界を悪だと信じるグノーシス派が、血で満たされた杯を彼らの主要な聖遺物とせねばならないのでしょう? 一方、罪により罰された神聖な魂を収める物理的な容器という考え方は、地上に落とされ定命の身体に囚われた天使が再度、神に合一しようと切望する、カタリ派の神秘思想にずっと近いものです。

 もっとも純真無垢なキャラクターの1人である〈ファイユ〉が、キャラクターへの質問で言及されているような石を所持しているのは、偶然ではありません。

 キリストの子孫の伝説は、それほど直接的でこそありませんが、カタリ派にも関係しています。

 カタリ派とテンプル騎士団の間には、完全な同盟というわけではないにしろ、相互理解がありました。〈アルマン・ド・ヴィシェ〉のカードに書かれている通りです。ペイジェント、リー、リンカーンが著した本『レンヌ=ル=シャトーの謎:イエスの血脈と聖杯伝説』(原題『The Holy Blood and the Holy Grail』1982年)を皮切りに始まった現代の神話には、この謎多き僧兵たちも関係しています。

 これらの仮説は、往々にしてまるで取るに足らない、憶測と空理空論に基づいたものなのですが、『モンセギュール1244』をプレイする際には、カタリ派の思想がテンプル騎士のそれとどう影響を及ぼし合ってきたのか想像してみるのも一興かもしれません。

 キリストの領域から地上へ堕とされた《ディスセンデンド》肉体に捕縛された魂という考え方は、肉体と魂を截然と分かつグノーシス主義そのもの、あるいは近似した思想です。ここから直観的に、〈ファイユ〉と〈アミエル〉という子どもらのことが連想されます。2人のおばが、娼婦にもかかわらず共同体に受け入れられているのは、このためかもしれません。〈ピエール・ロジェ〉は、メロヴィング朝フランク王国、つまりキリストとマグダラのマリアの継嗣とされるフランスの諸王の末裔《ディスセンデンド》だという人もいるのです。

 伝説が錯綜し時系列も定かではない混迷のなか、1つの史実を指摘しておきましょう。休戦中である1244年3月2日~16日(〈アクトⅣ〉)のあいだ、カタリ派のある一団がモンセギュール城塞から何かを運び出し、自分たちも脱走したのです。おおかた金や宝石なのでしょうが、つい、もっと珍しい謎めいたものが持ち出されたのではないかと考えてしまいたくなります。

 聖杯とは、何かしら常軌を逸した奇跡のような品物を収める器で、その特性が器の方にも転移したものとして、様々な形を取り、常にたいへん強力な象徴であり続けました。この点において、聖杯伝説はコルヌコピア(溢れんばかりに地の恵みを生み出す豊穣の角)やブランの大釜(聖杯と同じく、傷を癒し死者を蘇らせる魔術的効果を発揮する)と同じです。あらゆる面において、聖杯は定命の人間が持つ霊的なものへの憧れ、物質的なものと非物質的なもの、有限の肉体と不滅の魂が交わる点を象徴しています。聖杯の騎士とその探求《クエスト》は、平たく言えば――常に神聖で価値のあるとみなされてきた――かような均衡へ至るための奮闘を寓話化したものなのです。カタリ派のグノーシス主義が、頻繁に聖杯伝説に結びつけられるのは、驚くような話ではないのでしょう。

【伝説】キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち、あるいはテンプル騎士団

 伝説の範疇に組み入れるだけの価値があるものに、軍事的な権勢を誇る騎士修道会があります。ドイツ騎士団、ホスピタル騎士団(聖ヨハネ騎士団)、テンプル騎士団は、歴史的な事実とは別に現代のファンタジーを作り上げる華々しい要素で、もっとも荒唐無稽な伝説が真実と融合し、両者を選り分けることは難しくなっています。

 僧兵は歴史的には第1回十字軍の後に初めて誕生しました。教会が命令に従う自前の軍隊を擁する必要を痛感したためです。通常、騎士の忠誠は何よりも自らの主君に対するものが優先され、カトリック教会とキリスト教の理想への忠誠は二義的なものにすぎません。軍事組織としての騎士修道会をこしらえれば、この問題を取り除けます。ドイツ騎士団、ホスピタル騎士団、テンプル騎士団、その他の騎士団(主に14世紀までに設立された、40ほどの様々な騎士団が存在しました)はまずもって僧侶で、教会内の序列に従い、宣誓に縛られ、厳格なルールの下で暮らしていました。

 この種の騎士修道会で最初のものは、キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たちで――テンプル騎士団という通称の方が知名度はありますが――1119年に聖地パレスチナ周辺にて十字軍に参戦していたフランス騎士が、クレルヴォーのベルナルドゥスという強力な支援者の資金提供のもとに設立した団体です。以降2世紀にわたり、この僧兵たちは、武力と影響力の面で頂点に立ち、複数の王国の運命全体を左右するほどとなったものの、以降は内部の腐敗、十字軍の終焉、自らの力が引き寄せた嫉妬により凋落しました。

 テンプル騎士団の歴史は直接行動のそれです。彼らは創立者であるクレルヴォーのベルナルドゥスの意思に従い、中世の聖戦では切り込み役を担うことがままあり、異端を相手どれば常に最前線で闘いました。そこから考えると、テンプル騎士団がもっとも権勢を誇ったフランスの地でのカタリ派打倒の戦いにほかならない、アルビジョワ十字軍において、テンプル騎士団の姿がまるで見受けられなかったのには驚かされます。

 十字軍の混沌そのものの性質や、ドミニコ会や異端審問官といった同時代の組織が存在したからだと、この不在を歴史的な文脈で説明できるのなら、想像を飛躍させ、テンプル騎士団とカタリ派の間にありえた繋がりについて考えるのも容易でしょう。テンプル騎士団の〈アルマン・ド・ヴィシェ〉がある最重要事項についてカタリ派の指導者と話し合う使者として登場するのは、偶然ではありません。

 カタリ派とテンプル騎士団との間に、いかなる本質的な関係があったのでしょうか? いくつかの仮説を提示してみます。

 テンプル騎士団を象徴するのは、同じ馬に乗る2人の騎士で、これは騎士にして僧侶という、彼らの二重の本質を示したものです。しかし一部の学者は少しばかり別のことを考えています。これらの男性が含意するのは異なる二重の本質、つまり魂と肉体であり、テンプル騎士団当時の中世に広まっていたキリスト教グノーシス派の潮流から学んでいた可能性がある、というのです。同様のグノーシス主義的発想は、歴史上の同時期に発生した初期のカタリ派の源流であったのかもしれません。実際、カタリ派の教義はカトリックと共存した時期があり、後には両者の絶えざる緊張が剥き出しの衝突に至ったとはいえ、この発想には魅力があります。

 テンプル騎士団がらみの図像において二重性はたびたび現れます。裁判で、1つの頭に2つの顔を持つ存在を崇める異端だと宣告されたほどです。この2つの顔というシンボルは人間存在の二重性に関する表象で、ときにグノーシス主義へと結びつけられます。

 〈アルマン・ド・ヴィシェ〉と〈ベルトラン〉は、正反対の立場で前線にて闘っているにもかかわらず、ある種の親近感をおぼえていたか、あるいは両者の共通のルーツに気づいていた可能性があるのではないでしょうか?

 霊的な意味でのテンプル騎士団の父はクレルヴォーのベルナルドゥスで、彼はカタリ派の教義がカトリック教会のそれと衝突しはじめた時期を生きた人です。ベルナルドゥスはこの異端にはっきり敵対していましたが、暴力的な強硬手段を採ったわけではありませんでした。彼はこの二つの教義を融和させ、カトリックへ復古させようとする教派に属しており、二重性からなる教義をよく研究してもいたので、彼がカタリ派から強い影響を受けているという人もいます。一部には、ベルナルドゥスがテンプル騎士団の創始者たちをパレスチナへ送り込み、カタリ派のキリスト教観を補強する秘密を持ち帰らせるようにしたのだ、と論じる者もいます。この論理を、さらに大胆かつ蠱惑的な形で飛躍させれば、テンプル騎士団はカタリ派の理論の有効性を確かめ強固なものにする目的で生まれた分派、ということになります。さらに、テンプル騎士団にとって象徴的な場所はしばしばカタリ派のそれにきわめて近く、特にフランスは、どちらの流れでも中心地なのです。

 カタリ派とテンプル騎士団のあいだの2つ目の繋がりは、何もビックリするようなことではありませんが、聖杯です。

 テンプル騎士団は秘密を隠している、そう連綿と考えられてきたがため、著名な聖遺物、ありとあらゆる隠秘学の教義、文書や知識が彼らに関するものだと言われる状態となっていますが、なかでも聖杯は、テンプル騎士団ともっとも頻繁に結びつけて語られるものです。たとえ聖杯が盃であれ石であれ子孫であれ、テンプル騎士団は往々にして、その秘密の護り手とみなされます。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハがモンサルヴァートで聖遺物を護り儀式を遂行し神聖な生き様を見せる聖杯の騎士について書くとき、カタリ派と(〈レーモン〉の家系である)〈ド・ペレーユ〉の結びつきについて思いをめぐらす人がいれば、テンプル騎士団と彼らの(過酷な修行を行う)僧侶かつ戦士という両方の身分の意味を考えるものもいます。

 これら2つの推測は同種のものかもしれません。というのも、家系を調べれば〈レーモン・ド・ペレーユ〉が、テンプル騎士団の創設者の1人であるゴデゥフロワ・ド・サントメールの母フォルネラ・ド・ペレーユ直系の卑属であることを暗示しているのです。

 もし、カタリ派とテンプル騎士団が同じものを守護していたことがあったのだとしても、それは世俗の金であったという可能性のほうがずっと高いでしょう。テンプル騎士団は腕利きの商人であり、膨大な土地を所有し、西洋世界における銀行システム(の幾分か)を確立しました。他方でカタリ派は一般庶民に広範な支持者を擁し、オクシタニアやアキテーヌの裕福な貴族による支援も受けており、これにより巨額の財を動かせました。テンプル騎士団とカタリ派はフランスの最も卓越した金融ブローカーで、ご存知のとおり、金はさらなる金を呼ぶのです。

 そうすると、カタリ派とテンプル騎士団の謎めいた繋がりというのは、何の変哲もない世俗的にして物質的な金銭を介したものでしかない、ということになります。

 もちろんこれは、想像の翼を広げることや秘教的な人脈に関する夢想を止めるものではありません。『モンセギュール1244』には、突飛な発想を楽しみながら試せる相応の背景が提供されているからです。

【伝説】魔術と奇跡:中世における超自然

 何事にも実証性を求められる時代に生を享けた私たちにとって、中世における魔術や超自然のあり方が本当にはどうだったかを理解するのは容易ならざるものです。魔術的かつ宗教的な思考法は、中世の人々の自らを囲繞する世界に対する理解の仕方やものの見方に浸透していました。中世人は特殊な儀式や振る舞いが神的な力や自然の力に作用しうるという信念を失ってはおらず、それは古代の信仰の系譜にそのまま連なるものでした。

 教会は常に魔術の行使には敵対してきました。アルビジョワ十字軍もこの衝突の一部とみなすことができるでしょう。カタリ派は、聖アウグスティヌスが魔術師《マギ》と呼んだグノーシス主義者の末裔なのです。そうですよね? 結局のところ、中世の魔術というのは、口にするのも憚れる神の計画を人間がかわりに実行へ移そうとするものでしかなく、カトリックの高位聖職者にとって、人が自ら高みに昇って神の精髄の一部になるという完徳者の思想は、魔術と大差ないものに見えたのでしょう。

 比較的寛容な時期が続いた後、カトリック教会がかような禁じられた風習を許さなくなった頃を『モンセギュール1244』は扱います。前の数世紀の間、教会は低い社会階層で見られる異教的な思想と習俗について習合的な信仰(いわゆる「民間信仰」)をこしらえることで同化を試みました。しばらくして、教会はいっそう厳格になり、信徒の心を正統の信仰の方に向けさせ、民間信仰がらみの習俗を排除せんとするようになりました。

 これらの慣習は広く存在していたので、誰かを魔術を使ったかどで告発するのは簡単でした。そしてこの告発は、迫害と法的闘争の正当化の手段として使われ始めました(テンプル騎士団やジャンヌ・ダルクを想起してください)。カタリ派もこの犠牲者なのです。異端審問官の〈デュラン〉は報告書において、モンセギュールの異端者たちがいかにして魔術を悪用したか、天使の名のもとに悪魔を召喚し自らの意思のもとに従属させたか、描写しています。さらに言えば、救慰礼の儀式では「そなたはカトリック教会とその十字架、カトリックの洗礼、彼らの神秘的な儀式の放棄を宣誓しますか?」と尋ねられるというわけです。

 魔術と宗教は厳密に区分できるものではありえます。民間信仰のせいで、両者は混ぜこぜになっています。誰もが自分は正しい実践を行い神の意志に従っていると信じ込んでおり、ゆえに賛同しない者はみな、妖術や魔術を用いて神の命に背いたことで、有罪とされねばならないというわけです。

 民間信仰の基盤となるのは、キリスト教とは異なる迷信です。雨を降らせたいときはヒヨスの枝を使って処女の身体に川の水を振りかける(この魔術を用いると20日の断食刑という罰が下されました。穏健なものとみなされていたわけです)、戦闘での防備を得たければ鎧をトネリコの葉で磨いて聖セバスティアヌスかキリストに3度請願する、自分を愛している者の顔を知りたければ聖母マリアに3回祈りながら小麦粉を平らな板に撒くとその顔が現れる……といった具合のものです。

 ちょっとした儀式は民衆の心に深く根を張っており、何ら魔術とはみなされませんでした。モンセギュールで暮らす者なら誰しもがやったことがあるものでしょうし、それでもなお、自らを善きカタリ派の信徒と考えたでしょう。他方で、ささやかな儀式の1つ1つが、異端審問官や完徳者からの非難の対象にもなりました。〈ガルニエ〉は田舎で育ったので、間違いなくこの種の民間信仰を熟知していたでしょう。完徳者たる〈セシル〉や〈ベルトラン〉も同様ですが、貴族もまた例外ではありません。中世では超自然的なものが遍在しており、日常生活や中世の男女の間にも浸透していて、人々は確たる区別のできない魔術と宗教の狭間でバランスを取りながら生きていたのです。

 〈シーンカード〉の〈魔女の術〉では明示的な形で、特殊な魔術の行使について記されています。しかるべき儀式によって悪魔が召喚され、そうした悪魔が自然物を腐敗させることで、魔術の存在が認識される、というわけです。小規模な異教の儀式ではなく、本当の魔女術《ウィッチクラフト》であって、社会に容れられているキリスト教の信仰とは相反するものです。

 モンセギュールの地には悪魔召喚の下地があります。悪魔は神と闘えるほどの力を持ち神の秩序を覆せる唯一の存在であり、この地は自然の秩序に進んで立ち向かおうとする人々が集う場所というわけです。このことはとりわけ、悪魔が神と同等の力を持つとするカタリ派の二重性に関する思想を、カトリックが自らを神に従属するものと考え神の許諾のもとでしか悪をなせないとしているのと対比して考えれば、正しいと言えるでしょう。

 逆説的にではありますが、魔術は知識階級が準備したものでした。貴族や僧侶による知的な論証と古典の再発見から生まれたもので、知識の伝播を阻止しようとした人たちのおかげで、かえって上流階級から下層階級へと広がっていきました。ドミニコ会の異端審問官にしろカタリ派の完徳者にせよ、信仰の伝道者は誰しも――つまり〈フェリエ〉も〈ベルトラン〉も同様に――民衆がオカルトに傾倒し悪魔崇拝に耽ることを警告しています。こうした警告は古の文章にも見受けられ、そこで彼らは、一般人に紛れた魔女や魔術師によって魔術が実践に移されたと確信しています……。このように民衆に警告を発することで、以前はその存在を知らなかった人々のところにまで、禁断の知識は行き渡っていったのです。反動として、魔女術との闘争が燃え上がりました。『モンセギュール1244』において、この悪循環は始まったばかりですが、影響はすでに生じているかもしれません。

 宗教もまた、超自然的な出来事と常時結びつけられるものです。日常でささやかながらも奇跡的な出来事が起きたり、記憶や祝福に値する大事件が発生したりすることで、神は自らの力を証し出てます。〈ストーリーカード〉でゲームに持ち込まれる〈啓示〉は、中世の人間にはごく普通に、受け入れられるものでした。日常的かつ具体的な形で神が力を発揮してみせるのが、ある意味で自然だったわけです。カタリ派にとって、この「祈り」(彼らが認める唯一の祈りである「主の祈り」)は純然たる救済の力でした。祈ることで人は慈悲深き神と交歓し、神性に身を委ね、癒しの奇跡や畑の豊穣といったご利益を得られるのです。

 啓示を受けた予言者や神秘主義者は事実として広く受け入れられていましたし、完徳者の多くは、禁欲生活によってそのような力を得、魂が神に近づきつつあるのを肯定していました。神の力は日常生活の随所で発揮され、あらゆる現象は超自然的な干渉の結果とみなされました。おそらく私たちがもっとも理解しがたいのは、中世の世界がいかに自然法則ではなく神の力で律されていたかということでしょう。世界とは理解可能な規則に従って動く機械ではなく、それを1匹の動物であるかのように支配し絶えずその行動と行末を調整し続ける、外部の知的な存在によって支配されるものだったのです。

参考文献

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- Storia della chiesa: dalle origini fino ai giorni nostri, cominciata da Agostino Fliche e Vittorio Martin; continuata da Giov. Battista Duroselle e Eugenio Jarry ; versione italiana diretta da Amato Pietro Frutaz, Torino: Saie, 1957

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訳出の際に参照した主要参考文献

◆粟田賢三編・古在由重編『岩波哲学小辞典』岩波書店1979

◆荒井献「グノーシス派」『日本大百科全書(スーパー・ニッポニカ2003)』小学館 2003

◆エーコ、ウンベルト『フーコーの振り子』(上下巻、藤村正昭訳)文春文庫1999

◆大貫隆『グノーシスの神話』講談社 2014

◆小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』NHKブックス2010

◆ゲッツ、ハンス・ヴェルナー『中世の日常生活』(轡田収ほか訳)中央公論社1989

◆シェルツェ、ハンス・クルト『西欧中世史事典』(千葉徳夫ほか訳)ミネルヴァ書房1997

◆柴田有「グノーシス主義」『世界大百科事典第二版』平凡社 1998

◆佐藤賢一『オクシタニア』(上下巻)集英社文庫2006

◆ジョーンズ、ダン『テンプル騎士団全史』(ダコスタ吉村花子訳)河出書房新社2021

◆須田武郎『騎士団』新紀元社2007

◆健部伸明「『アーサー王と円卓の騎士』という幻想を巡る物語群」(「ナイトランド・クォータリー」Vol.31)、アトリエサード2023

◆野口洋二『中世ヨーロッパの異教・迷信・魔術』早稲田大学出版部2016

◆「グノーシス」『ブリタニカ国際大百科事典小項目版2007』ロゴヴィスタ2007

◆ブルノン、アンヌ『カタリ派』(池上俊一監修、山田美明訳)創元社2013

◆待兼音二郎・岡和田晃・見田航介「戦鎚傭兵団の中世“非”幻想事典」(「Role&Roll」Vol.77より隔月連載)新紀元社2011~(カタリ派の回はVol.107, 2013年)

◆ロクベール、ミシェル『異端カタリ派の歴史』(武藤剛史訳)講談社選書メチエ2016