I Have No Words & I Must Design: Toward a Critical Vocabulary for Games (Greg Costikyan, 2002)

I Have No Words & I Must Design: Toward a Critical Vocabulary for Games


Greg Costikyan (costik@costik.com)

グレッグ・コスティキャン 著


『Proceedings of Computer Games and Digital Cultures Conference』 ed. Frans Mäyrä. Tampere: Tampere University Press, 2002.  pp.9-33.

Copyright: authors and Tampere University Press.

〔日本語訳においては底本として下記を使用した: http://www.costik.com/nowords2002.pdf

言葉は無く、デザインはせねばならず: ゲームのための批評的語彙に向けて

 初めて「ゲームプレイ」という用語を聞いたのは、1982年、アタリ社の採用面接でのことだった。新作アーケードゲーム、『ザクソン Zaxxon』だったと思うが、これをプレイしたばかりの誰かが使ったのだ。「〔このゲームには〕良いゲームプレイがある」

 以来、この用語はこの分野であまねく存在するものになった。人々はゲームプレイについて、それをゲームが保持すべき何か魔法的で神秘的なものであるかのように語る。ゲームデザイナー達は自らに化粧して、自分達がコーダーやマネジメントの類やアーティストと異なり「ゲームプレイを理解している人間」なのだとしたがる。しかし実際には、ほとんどの者は理解していない ― というのは「ゲームプレイ」自体が漠然とした、ゆえに役に立たない用語だからだ。「良いゲームプレイがある」と言うことの有用性は、「あれは良い本だ」と言うのと同程度だ。何かを「良い」と言っても、それの何が良いのか、それが何の喜びをもたらすのか、何か別の良いものについてはどうか、といったことを我々が理解するのを助けてはくれない。

THE GAME IS PLASTIC

ゲームは可塑的である

 「ゲーム」は驚くほど可塑的《プラスティック》な媒体だ。新石器時代からハイテクまであらゆる全ての技術に適応する。そして永年にわたり、驚くほど多様なゲームが創られてきた…ボードゲーム、ウォーゲーム、卓上ロールプレイングゲーム〔RPG〕、コンピューターおよびコンソール用ロールプレイングゲーム〔「コンソール」は一般に家庭用ゲーム専用機を指し、またここでは「コンピューター」は概ねパーソナルコンピューターを指す(1970-80年代の大学等におけるネットワーク化されたコンピューターを指す場合もある)。本稿の中でも、コンピューターと言った場合にデジタルゲーム一般を指し得る場合と明らかにPCゲームの類を指す場合が混在するが、本稿では両者の区別が論述上重要になる箇所は無い〕、大規模多人数同時参加オンラインゲーム〔MMO〕、ライブアクションロールプレイングゲーム、MUD〔Multi-User Dungeons: 多人数同時参加ダンジョン型ゲーム。ただし、ここでの「ダンジョン」は『ゾーク』のようなゲームを指す〕、MUSH〔Multi-User Shared Hallucination。バクロニムと考えられ、Hが示す単語には所説ある。MUDの一系統。MUDの名前で呼ばれるものがハック&スラッシュの傾向にあるのに対して、MUSHや後述のMOOはコンテンツの共創を重視する傾向にあるとも言われる〕、MOO〔MUD Object Oriented: オブジェクト指向MUD。言葉自体はオブジェクト指向プログラミング言語で書かれたMUDというだけの意味だが、そこで組まれるゲームの傾向については、前述のようにMUDとの差異があるとも言われる〕、カードゲーム、コレクタブルカードゲーム、プレイバイメール・ゲーム〔郵便を使って遊ぶ、ある種の大規模多人数参加型ロールプレイングゲーム。日本における作例として『蓬莱学園の冒険!』など〕、プレイバイeメール・ゲーム、ミニチュア物、シム、フライトシム、乗物シム、テキストアドベンチャー、グラフィックアドベンチャー、アクションアドベンチャー、シューター、スニーキング物〔ステルスゲームとも呼ばれるジャンルを指す。作例として『メタルギアソリッド』など〕、ダンス物、ドライブ物、リアルタイムストラテジー〔RTS〕、ターン制ストラテジー、ゴッドゲーム〔神視点物。作例として『ポピュラス』など〕、プラットフォーマー〔ここでのプラットフォームは足場を意味する。足場から足場へと渡り歩くようなゲームジャンルを指し、『スーパーマリオブラザーズ』などが典型例〕、ファンタジースポーツ、横スクロール物、迷路ゲーム、雑学《トリヴィア》ゲーム、パズルゲーム、無線ゲーム〔概ね、インターネット接続可能な携帯電話で遊ぶゲームを指すものと考えてよい〕、場所ベースのエンタテインメント〔Location-Based Entertainments: 遊園地やボウリング場やビリヤード場など遊戯場全般を指す言葉〕、ギャンブル、ペイントボール〔ペイント弾を射出する玩具銃を用いたスポーツ〕、スポーツ、馬…

 これらはすべてゲームだ。しかしこの驚くほど共通点のない分野をどうやって理解しよう? これらのすべてのゲームに関する、これらを面白くするものとは何なのか? そもそも本腰を入れて取り組めば何か共通点があるようなものなのか?

 ゲームを理解し、ゲームについて知的に語り、より良い作品をデザインするには、ゲームとは何かについて理解し、「ゲームプレイ」を同定可能な複数の塊《チャンク》に分解する必要がある。短く言えば、我々にはゲームの批評的語彙が必要なのだ。

INTERACTION

インタラクション

 1982年のこと、クリス・クロフォード Chris Crawford が、ゲームデザインに関して出版された数少ないまともな本のうちのひとつ、『クロフォードのゲームデザイン論 The Art of Computer Game Design』〔ShinoおよびOJによる邦訳が公開されている。 https://www.igda.jp/wp-content/uploads/2023/08/ACGD.pdfを出した。この本において、クリス・クロフォードは彼が「ゲーム」と呼ぶものを「パズル」と対照づけた。パズルは静的なものだ。パズルは、解くべき論理構造を、助けになる手掛かりと共に、「プレイヤー」へ提示するものだ。対照的に、「ゲーム」は、静的でなものではなく、プレイヤーの行動《アクション》とともに変化する。

 ある種のパズルは明らかにパズルだ。クロスワードを誰も「ゲーム」とは呼ばない。しかし、クロフォードによれば、ある種の「ゲーム」は実際のところパズルに過ぎない ― 例えば『ゾーク Zork』(Lebling & Blank)だ。このゲームの唯一の目的はパズルを解くことだ。オブジェクトを見つけてこれを特定の方法で使い、ゲームの状態に望ましい変化をもたらすのだ。ここには相手はおらず、ロールプレイもなく、管理すべきリソースもない。勝利は純粋に、パズルを解いた結果なのだ。

 私の思うには、クロフォードはこのケースを強調しすぎている。『ゾーク』が属するアドベンチャーゲームというカテゴリーは、単なるパズル以上のものだ。アドベンチャーゲームでは、プレイヤーの行動に反応して状態が変化〈する〉。プレイヤーは自分が新しい場所にいることに気付き、パズルの解は新たなる機会の扉を開く。後年のゲームでは ― 『ゾーク』は成功した最初期のコンピューターゲームのひとつだ ― キャラクターのインタラクション〔相互作用〕とストーリーの展開がより重要なものになっている。個人的には、『ゾーク』を「これはゲームではない、恥さらしが」という地位に貶めるのも気が進まない。『ゾーク』は強いパズル要素を持った、ゲームなのだ。

 ほとんど全てのゲームが、いくらかのパズル解きの要素を持っている。純然たる軍事ストラテジーゲームであってすら、例えばプレイヤーに対して、この地点からこれこれのユニットで最適な攻撃を実行するためのパズルを解くよう求めてくる。実際、あるゲームがこの種の意思決定を含んでいたり、あるいは様々な種類のリソースの間におけるトレードオフを含んでいたりするなら、人はこれを「パズル要素」とみなし、最適解を考え出そうとするだろう。ファーストパーソンシューター〔FPS〕のデスマッチ・プレイですら、優位を取るために地形や遮蔽を利用しようとするだろう ― 言うなれば、相手の現在位置や周囲の環境の性質によって提起される、「パズル解き」だ。パズルをゲームから完全に摘出することはできないのだ。

 しかしなお、クロフォードによるこの区別は有用なものだ。パズルは静的なもので、ゲームはインタラクティブ。

 これは一部の読者の頭の後ろでベルを鳴らすことになるかもしれない〔「ん、それならば」という気付きを得るかもしれない、程度の意味〕。「インタラクティブ」というのはコンピューター媒体を指す用語ではなかったか? そして多くのゲームは非デジタルなのでは? 『モノポリー Monopoly』はインタラクティブなのか?

 〈もちろん〉そうだ。止まった土地の不動産を買うか否か選ぶ。ゲームの状態はこの意思決定に反応して変化する。ゲームの結果は意思決定に応じて異なったものになるだろう。プレイヤーによるプレイと共に状態を変えつつ、このゲームはプレイヤーと(そしてプレイヤーは互いと)〈インタラクト〉する。『ゾーク』はそのコアにおいてインタラクティブなのだ。

 これは全てのゲームについて真だ。インタラクティブでないなら、それはゲームではなくパズルだ。私はいくらか前に、「インタラクティブ・ゲーム」の課程を教えるよう請われたことがある。この用語が使われているのを過去に聞いたことがあるが、使っていたのは電子ゲーム、つまりアーケードやコンソールやコンピューターのことを頭に置いて考えている人々だった。そうではない。全てのゲームがインタラクティブなのだ。「インタラクティブ・ゲーム」は冗語だ。

GOALS

目標

 しかし本当のところ「インタラクション」とは何を意味しているのか?

 実際は、たいしたことではない。電灯のスイッチはインタラクティブだ。スイッチを上げれば光が点るし、下げれば光は消える。これはインタラクションだ。

 明らかに、電灯のスイッチはゲームではない。インタラクション〈それ自体〉にはゲームとしての価値〔ゲーム・バリュー〕はない。インタラクションには目的が必要なのだ。

 ひとつインタラクティブであるような物を考えよう。ある段階で、あなたは選択に直面する。Aを選んでもいいし、あるいはBを選んでもいい。この〈物〉の状態は、あなたの意思決定によって変化するだろう。

 しかし、何がAをBよりも良いものにするのだろう? あるいはBはAよりも時には良いもので、別の時にはそうではないのか? この意思決定において勘定に入るものは何か? 管理すべきリソースは何か? 最終的な目標は何か?

 アハ! 今や我々は「インタラクション」について話しているのではない。我々は今、意思決定について話しているのだ ― つまり、目的を持ったインタラクションだ。

 何が〈物〉〈ゲーム〉にするのか。それは意思決定の必要性だ。『チェス Chess』を考えよう。このゲームを魅力あるものにする側面は多くない。シミュレーション要素は無いし、ロールプレイングも無く、色だって碌にない。このゲームにあるのは、意思決定を行う必要性だ。ルールにはタイトな制約があり、目的は明確で、勝利のためには何手先かまで考えることを要求される。意思決定における卓越が成功をもたらすのだ。

 たぶん意思決定というのはコンセプトが強すぎるかもしれない。『チェス』や『シヴィライゼーションIII Civilization III』や『ダンジョンズ&ドラゴンズ Dungeons & Dragons〔D&D〕』なら、その核において意思決定を頼みとするゲームだと間違いなく考えるだろう。しかし『クエイク Quake』や『マリオ』のような素早い動きのゲームでは、慎重な計画よりも素早い反応とインターフェースへの習熟のほうをより頼みとすることになる。とはいえ確かに、行うべき意思決定は存在している ― どの道を行くか、如何に相手をかわすか ― しかしインタラクションの基本的なスタイルは脳によるものではあまりなく、運動神経の良さと特定の技術《スキル》の鍛錬により依存するものだ。それでもなお、スキルとアクションのゲームにおいてすら、インタラクションには〈目的がある〉のだ。

 どんなゲームでもプレイヤーがやることというのは何だろうか? あるものは媒体に依存する。あるゲームでは、かれ彼女はダイスを振る。あるゲームでは友人と喋る。あるゲームではキーボードを強打する。あるゲームではコントローラーをいじり回す。しかしどんなゲームでも、このプレイヤーがしているのは、自らの目的を達成する一助にしようとやっている、適した流儀での反応なのだ。

 あらゆる時点で、かれ彼女はゲームの状態を検討する。これはスクリーン上に見えるもののことかもしれない。あるいはゲームマスターが言ってきたことかもしれない。ボード上のコマの配置のことかもしれない。自らの、目的そして自分が利用可能なゲームトークンとリソースを考える。また、苦闘しなければならない対象となる勢力である、相手のことを考える。最良の行動方針を取る意思決定をおこなおうと試みる。

 そしてかれは自らの目的を成し遂げるために自分ができる最良の反応をおこなう。自らの目的とはつまり、ゴール〔目標〕のことだ。あらゆるゲームに目標《ゴール》があるのだろうか? 極めて明らかなことだが、ほとんどはそうだ。ほとんどのゲームには明示された「勝ちという状態」、つまり一連の勝利条件がある(これはボード・ウォーゲーミングから来た言葉だ)。我々がゲームと交わす基本的な取引というのがあって、それはつまり、勝利を成し遂げるのが重要であるかのように振る舞うと合意することで、これはゲームにおける我々の振るまいを目的にガイドさせるために行っているのだ。結局のところ、この基本的なコミットメント無しにゲームをプレイしても、ほとんど意味が無い。

 しかし、一部のゲームには、〈明示的な〉目標がない。

 何年か前、ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス Game Developers Conference〔GDC〕でウィル・ライト Will Wright が、彼のデザインした『シムシティ』をソフトウェア玩具だと表現した。彼はこれを明らかにするための比較対象物としてボールを持ち出してきた。つまり、これは色々な興味深い振る舞いをするので、あなたはこれを探究できるというわけだ。弾ませたり、回したり、投げたり、ドリブルしたり。そして望むなら、これをゲームにも使うことができる。サッカーやバスケットボールやその他なんでも。しかしこのゲームはこの玩具に内在するわけではない。これはこの玩具の上に〈被せられた〉、プレイヤーが定義する一組の目的である、というわけだ。

 そして『シムシティ SimCity』もそういうものだ。多くのコンピューターゲームと同様、本作はプレイヤーが操作できる世界を創造しているのだが、しかしほとんどのゲームと異なり、本作は明示的な目標を提供しない。ああ、目標を選ぶことはできる。スラムのない町だとか、大量輸送機関のみに依存する町だとかを作れるか試してみる、というようなことだ。しかし『シムシティ』それ自体には勝利条件も無く、目的も無い。これはソフトウェア玩具なのだ。

 これは正しい ― そしてある意味で、これは落ち度だ。Wrightの他のデザインのいくつかは、著しい対照を示している ― 例えば『シムアース SimEarth』だ。『シムアース』は地球上の生命の進化のモデルだ。数体の単細胞生物から始まり、生命の夜明けの海でこれを複製していく。時を経て、これらはより複雑な動物に進化し、大地に足を置いて定着し、広がっていく。これは環境の変化に反応しながら、時に起きる大災害に対処しながら行われる。進化により知的生命が誕生したところでゲームは終了する。

 『シムアース』は1990年に出版された。これはマーケットでは失敗だった。『シムシティ』のほうは定期的にアップデートされ、常に力強い売り上げを見せる、長い続き物になっている。『シムアース』は消えた。何故だろう?

 どちらのゲームも、プレイヤーに操作可能ないくらかのパラメータと、いくらかのやれることを提供する。どちらも、長期間あくせく働くモデルを傍観できようになっている。多くのゲームと異なり、どちらも継続的かつ活動的に係わることをあなたに求めてこない。しかし両者の間には、ひとつ重大な違いがある。『シムシティ』は目標の幅広い選択〔肢〕を提供している。『シムアース』はこれがない。つまり、『シムアース』には、本当に、目標がないのだ。意図的に妨害しない限り、最終的には知的生命は生まれ、ゲームが終わってしまう。

 『シムアース』を「プレイする」のは、電灯のスイッチを点したり消したりするのに似ている。ここには〈主眼〉がない。『シムシティ』は対照的に、どんな町が欲しいかという選択を与えてくれるし、自分の街を安定させるための苦闘をさせてくれる。通勤には車を使い巨大な中心区画を持たない、郊外のユートピアを築こうとすることもできる。重工業を持たず良い大量輸送機関のある集中化された町を作ろうとすることもできる。ここでは百万通りのことを試せる ― そして、いつでも何か新しいことを試せるから、もう一度プレイするのはいつでも面白い。

 ウィルは正しい《ライト》。『シムシティ』は、この意味で、全くゲームではなく、単なるソフトウェア玩具だ。しかしこれは、ボールと同様、〈良い〉玩具だ ― 本作は非常に多くの〈目標に方向付けられた振る舞い〉を受け入れることができ、そうであるがために、「勝利という状態」や備え付けの明示的な目標がこのゲームには存在しないという事実〈にもかかわらず〉、これは良いゲームなのだ。『シムシティ』が機能するのは、これがプレイヤーたちが〈自分自身の〉目標を選べるようになっていて、また選べる目標が幅広く提供されているからだ。『シムシティ』はゲームだ ― 少なくとも、プレイヤーがこれをゲームとして遊んでいる限りは。『シムアース』は、その類似性にもかかわらず、ゲームではない。

 『シムシティ』が明示的な目標を持たないただひとつのゲームだというわけでは全くない。同じことはすべての紙のロールプレイングゲームにおいて ― またオンラインMUD、そして『ウルティマオンライン Ultima Online』や『エバークエスト EverQuest』といったグラフィカルなMUDにおいても真である。

 ロールプレイングゲームとMUDのいずれにおいても、あなたはある想像上の世界における単一のキャラクターを操作する。しばしば、他のプレイヤーと出会い、グループを組み、この世界の中で協働する。非《ノン》プレイヤー・キャラクター〔NPC。プレイヤー(のうちの誰か)が操作するキャラクターであるプレイヤー・キャラクター(PC)と対になる言葉〕はゲームマスターによって操作される(紙のRPGの場合)か、自動化されたシステムによって操作される(MUDの場合)。

 どちらのゲームの場合も、キャラクターの改良が鍵となるコンセプトのひとつだ。プレイを通じて、あなたのキャラクターはもっとパワフルになり、多くのヒットポイント、スキル、呪文、装備、その他なんでも獲得する。多くのゲームにおいて、パワーはなにかを殺すことで得られる。これは例えば『ダンジョンズ&ドラゴンズ』と『エバークエスト』の両方で当てはまる。なかには、クエストの達成やストーリー上の目的に到達したり、戦闘中あるいは何か他の形でスキルを使用することで、パワーを得られるゲームもある。しかし、キャラクターの改良を可能にするために使われるメカニズムがなんであれ、キャラクターの改良はRPGとMUDの両方で根本を為すものであり続けている。

 ここにはすでに目標があることに注意しよう。プレイヤーは自分のキャラクターを改良するよう動機付けられている。MUDやRPGはマルチプレイヤーのソーシャルゲームだ。どちらのスタイルのゲームでも、他のキャラクター(PCたち)に会い、インタラクトする。他のプレイヤーたちとの継続的な関係を確立する。この世界自体について学ぶ ― そして避けがたく、結果として他の目標が手に入る。フレンドのひとりが、成し遂げたいタスクを持っているかもしれない ― そしておそらく、あなたがそのフレンドを手伝うなら、あなたにはその道中でもっと強くなる機会があることだろう。この世界自体の本質(うまくデザインされているか、あるいはゲームマスターがうまく考えつけば)や、あなたが築いた他のキャラクターたちとのコネクションが、あなたに別の目標を提供することになる。

 この種のゲームでは、プレイヤーが道を見失ったように感じる時がある。次に何をすべきか、次のレベルのパワーに到達するにはどうするのか ― あるいは、次のレベルに到達するという動機では充分かどうかとすら。私は一人のロールプレイヤーとして、飽きが来ることがあった ― 私のキャラクターが他のPCと宿屋に座って、何をするか議論している時とか。MUDでは、外に出てノールをもっと殺す見込みになっていて、ここに他に何かすべきことがあるのか自問した時、飽きが感じられた。

 ここでは何が起きているのか? まさにこれだ ― これらの瞬間は、MUDやRPGにおいて目標が明示されていないという事実から結果として起きたものだ。キャラクターの成長という目標は暗黙的なものだが、時としてそれでは不充分なのだ。〔先の例の〕私は次の面白いやることを探そうとしている。私は目標を探している。

 言葉を変えよう。このゲームは私を失望させている。RPGの例では、私を失望させているのは、私のゲームマスターがあの瞬間において良いゲームマスターではなかったからだ。良いゲームマスターは、自分のプレイヤーが退屈し掛かっているのを感じ取り、何かやることを与えるだろう。他に何もなければ、オークの群れを宿屋に出現させ、〔そのオークどもの〕頭を破裂させだすこともできる。こうすればPCたちに爆速で目標を与えることができる ― 自己保存は〈良い〉目標だ。MUDの場合、そのデザインが目標の充分な多様性を提供していなかったからだ ― 単純にモンスターを虐殺して連中の宝物を取るというのは時間が来ると飽きられる。そして良く運営されたMUDはキャラクターの成長のための別のメカニズムを提供するものだ。

 RPGやMUDにおいて、プレイヤーは究極的には自分自身の目標を選ぶ。この〔種の〕ゲームにおけるジョブは明示的な目標を提供するためのものではない。そうではなく、それは目標の多様性を可能にし、プレイヤーがそれらの中から取って選べるようにすることで、そのプレイヤーを惹きつける目標を見つけられるようにするためのものだ。

 しかしこれは目標の存在を否定するものではない。明示的な勝利の条件を持つようなゲームスタイルにおいてそうであるのと同様、MUDやRPGでも目標は根本にあるものだ。実際、プレイヤーは奮闘するに足る目標が無いと感じだすと不安になり始めるものなのだ。

 ゲームは目標によって方向付けられたインタラクションだ。しかし目標だけでは充分ではない…。

STRUGGLE

苦闘

 時々、政治的に正しい人が、ゲームは「競争的」でそれゆえに悪いものだと攻撃してくる。ゲームには勝者がいる。敗者がいる。これは悪いことだ。我々は他者を育て、支えるものであるはずだ。なぜ我々は〈協力的な〉ゲームを持てないのか?

 「協力的なゲーム」は一般には「全員でキャッチボールをしよう」の変奏だと考えられる。いやはや。なんと楽しい。デスマッチの相手を粉微塵に吹き飛ばすのなんかやめてそっちにしよう。もちろんそうだよ。

 しかし我々は競争について話していたんだったか?

 違う。我々が話していたのは苦闘についてだ。

 ここにひとつのゲームがある。『勇敢なちびのイングランド Plucky Little England』と呼ぼう。これは第二次世界大戦において、フランスの陥落後にイギリスが直面した状況をシミュレートしたものだ。あなたの目的は、自由と民主主義を守り、邪悪と暴虐の力を打ち破ることだ。あなたは選択をおこなう。

 どちらを選んだ? Bを選んだ? おお、良い選択だ。おめでとう。あなたの勝利だ! 実に満足のいくものだっただろう? ああ、勝利の感動よ。

 もちろん、ここには勝利の感動は無い。あまりに簡単すぎる、そうじゃないか? ここには何も苦闘がない。

 競争はゲームを苦闘にするひとつの方法だ。ふたりが面と向かって相争うゲームでは、あなたの相手が敵対者となり、あなたの苦闘はこの相手に対するものになる。このゲームは直接的な競争だ。そしてこれはゲームを苦闘にする最上の方法のひとつだ。断固たる人間の相手ほど、卑劣で負かしづらいものは他に無い。『チェス』がこれほど揺るぎないゲームであるのは、正しく、手と思考の全てが、相手の手と思考を読んで対処する必要性に駆られたものだからだ。『チェス』には競争〈以外〉の苦闘は存在しないが、人を惹きつけてやまないゲームを作るにはこれで充分過ぎるほどだ。

 しかし ― 競争は苦闘を作り出す唯一の方法ではない。

 フィクションで喩えよう。標準モデル説話文学《ザ・スタンダード・モデル・ナラティブ》であるこの原物語《ウル=ストーリー》は、以下のように動く。主人公には目標がある。主人公は障害A, B, C, Dに直面する。主人公はこれらの障害にひとつずつ向き合い苦闘するうち、人間として成長していく。最終的には、主人公は最後かつ最大の障害を乗り越え、何か満足いく解決がもたらされる。

 これらの障害は悪役でバッドガイで対抗者で敵なのか?

 違う。確かに良き悪役は最上の障害を産み出すものではあるが。自然の力、意地悪な継母、ハードディスクのクラッシュ、主人公自身の自己否定感情といったものも、良い障害を産み出すことができる。

 ゲームでも同じだ。

 『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のような卓上ロールプレイングゲームでは、あなたは半ダースほどの他のプレイヤーそしてひとりのゲームマスターと一緒に、テーブルの周りに座る。プレイヤーはそれぞれ、そのゲーム世界におけるひとりのキャラクターを受け持つ。あなたがたは全員、よりパワフルになることを望んでおり、またあなたがたの多くには同じくらい成し遂げたい別の目的もある。しかしRPGの基本的性質から、あなたがたは、少なくともほとんどの状況において、互いに〈協力〉し、それぞれの目標のため相互に支援することが期待されている。あなたには「対戦相手」はいない。少なくとも他のプレイヤーという形では。プレイヤー間での直接的な競争は起きないのだ(宝物の分配の時間になったら論争が巻き起こることはよく知られた話だが)。

『D&D』において苦闘を提供するものは何だろうか? ほとんどの場合は、モンスターや非《ノン》プレイヤーキャラクター(NPC)だ。あなたがたのキャラクター達は共に「冒険」に出る。この冒険はプロットの骨格であり、発生しうる遭遇と報酬の連続だ。あなたがたは相当な時間を、モンスターどもを殺害し連中の宝物を取ることに費やす ― 『D&D』の経験値システムはこの種の振る舞いに依存しているのだ ― NPCと関わり合ったり《インタラクト》、筋書きを理解し満足いく解決に持っていったりするのと同じくらいに。

 苦闘の一部は、モンスターやNPCによって引き起こされる妨害の中に存在する。一部は、世界と物語の探索の中に存在する。一部は、ゲームの物理世界内でもたらされる罠やパズルの中にある。そしてまた一部は、ゲームの社会的領域の内に引き起こされる社会的困難の中にある。ロールプレイングゲームにはゲームマスターというものがひとり存在し、これはルールの裁定やNPCのプレイや世界の描写や物語の手引きを、プレイヤー達が満足するような形で行うことに責任を負っている。ゲームマスターはある意味で、審判と劇作家を組み合わせたような務めを果たす者だ。RPGは非常に柔軟であるがために ― そしてゲームマスターが存在するが故に ― 事実上フィクションと同じくらい幅広い種類の障害をもたらすことができる。

 ロールプレイングゲームは直接的なプレイヤー間の対立を必要としない。プレイヤー達が苦闘する対象となる障害は他に豊富にあるのだ。力を獲得することやその他の目的を達成することは、常に苦闘だ。そうでないとしたら、それはゲームマスターが自分の仕事をしていないことになる ― ゲームマスターはゲーム中の出来事を相当に制御できるのだから、それが苦闘となることを〈保証し〉、プレイヤーがゲームを楽しめるようにする義務がある。

 『グリム・ファンダンゴ Grim Fandango』〔ルーカスアーツ社から1998年に刊行されたゲーム。2023年時点で未訳〕のようなグラフィックアドベンチャーにおいても、苦闘は競争的なものではない。他の実在のプレイヤーと競争することもなく、ついでに言えば、コンピューターが制御する「相手」と競争するわけでもない。グラフィックアドベンチャーは本質的には、パズルによって分かたれた、アニメーションによる複数の物語だ。カットシーンもあるが、ほとんどのアニメーションは、プレイヤーの行動に反応してゲームエンジン自体によって実演される。物語は完全には線形ではない。プレイヤーには、ゲーム中の各ポイントにおいて、解くべきパズルがいくつか置かれた相当に大きな空間の中、いくらかのキャラクターと関わり合い《インタラクト》ながらさまよう自由がある。いくつかのパズルについては他のパズルをまず解く必要があるが、好きな順番で解けるものもある。

究極的には、空間の中でパズルを解くことでプレイヤーはゲーム上の次の空間へ移動することを許可され、そこで新たな一群のパズルに遭遇する。

 あなたは望むなら、グラフィックアドベンチャーを純粋に物語のためにプレイすることもできる ― そして実際、物語が充分に良いのでこの方法で遊んでも楽しいアドベンチャーもある(『グリム・ファンダンゴ』はこの基準を満たしている)。外出してヒント本を買ったりウェブで攻略ガイドをダウンロードして、この本でパズルを解いても良い。このやり方で物語にありつけ、パズルについて考える必要はないというわけだ。

 それでは ― なぜ〔制作者は〕単にパズルを捨てないのか? 単純にインタラクティブ・ストーリーとして作ればよいのでは?

 ひとつには、そうすると三十時間のゲームが四時間の物語に変わってしまうということがある ― 個人的には、四時間の娯楽《エンタテインメント》に五十ドルは払いたくない。しかしこれはどうでもよくて、パズル無しではそれはもはやゲームではないのだ。もはや苦闘はそこには無い。ゲームに辿り着くための真の働きがないのだ。パズル、そしてこれを解く中でもたらされる苦闘こそが、『グリム・ファンダンゴ』をゲームにする。

 コンピューターおよびコンソールゲームの開発者は始終この苦闘の概念と取っ組み合いしている。ゲームがあまりに難しいとプレイヤーは苛立つことを、開発者は知っている。逆に、あまりに簡単だと、プレイヤーはだるく感じる。開発者は相当に気を遣って ― そしてかなりの時間をテストに費やして ― ゲームが間違いなく適切にバランスが取れたものようにしようと試みる。可能ならば、開発者はプレイヤーが難度を変えてちょうど良くするための方法を盛り込む ― あまりに簡単なら難度を上げ、難しすぎれば下げればよい。

 あなたがゲームにおいてプレイヤーに設定した目標が何であれ、そのプレイヤーの目標を達成すべく、プレイヤーを動かさなければならない。互いを対立させるのはひとつの方法だが、唯一の方法ではない。そしてプレイヤーに対戦相手がいる場合であっても、ゲーム中に他の障害を出してゲームにリッチさと情感を加えることは可能だ。

STRUGGLE (CON’T)

苦闘(続き)

 「協力ゲーム」への渇望は、争いをやめることへの渇望だ。しかしそれは存在し得ない。人生とは生存と成長への苦闘だ。こちら側の世には、争いの終わりはない。苦闘のないゲームは死んだゲームだ。

 最初は困惑するかもしれない。何かを〈難しく〉すれば、より楽しくなるのか? これは我々の日々の生活への見方とは異なる。あなたが私の仕事を簡単なものにしてくれたら、私はあなたに感謝するだろう。私の通勤に苦闘の度が増しても、私は楽しくなったりは〈しない〉。我々は苦闘や課業《ワーク》や障害を、快ではなく〈苦痛〉と同一視する。

  しかしこれはゲームにおいては絶対の真だ。我々は自分に挑戦してくるゲームを欲している。我々はここで作業《ワーク》をしたいのだ。あまりにも単純で簡単で、何の挑戦も無くさっさとやり終えて終幕にたどりついてしまっては、何の楽しみもない。達成の感覚も、熟達の感覚も、勝利の感覚も、簡単すぎては得られない。

 ただし、これは我々がタフ過ぎるものを求めていると言っているわけではない。最良の努力にもかかわらず、ボコボコにされて終了というのを何度も何度も繰り返されたら、我々は苛立つ。ここにはゲームバランスが必要だ ― ついでに言えば、この用語はソリティア〔一人ゲーム〕とマルチプレイヤー・ゲームでは意味が全く異なる。マルチプレイヤー・ゲームにおけるゲームバランスは、全員が同一線上に立っており、誰もアンフェアな優位を得ていない、とプレイヤーが感じられる必要がある、ということを意味している。ソリティアのゲームにおけるゲームバランスが意味するのは、勝利の機会が公正であること、自分がより努力してより賢く立ち回ってこのゲームにより熟達するほど勝利の可能性が高まることだ。

 以前、グリニッジ・ヴィレッジ〔ニューヨーク市内の地区名〕にチーズとパテを買いに行ったことがある。パテを注文したら、カウンターの店員はコルニションも要るかと聞いてきた ― 小さい〔胡瓜の〕ピクルスで、フランス人はパテと一緒にこれを食べる。彼はもったいぶって手を振り、こう言った。「コルニション無しのパテなんかありえませんよ」彼は売り上げを立てた。

 うむ ― 苦闘なしのゲームなどありえない。ゲームはプレイヤーに対して、苦闘しながらインタラクティブに目標へ向かうことを求めるものだ。

STRUCTURE

構造

 友人のエリック・ジマーマン Eric Zimmerman は「ゲームとは欲望の構造」だとよく言っている。私はふたつの理由から、このフレーズが好きではない。第一に、これはだいぶ曖昧だ。「理解」するには説明を受ける必要がある。第二に、これではゲームが売春窟であるかのように聞こえる。

 とはいえエリックはここで何かに気付いている。「欲望」という言葉で彼は、ゲームが目標を持っていること、そしてプレイする際は目標が重要なものであるかのように振る舞うという点についてプレイヤー同士の合意が取れていることを言っている ― ゲームは、そのゲーム自身の目標を成し遂げたいという欲望を創造するのだ。構造という言葉で彼が言っているのは、ゲームのルール、内容物、ソフトウェアその他の相互作用が、人々がプレイする構造を創造するということだ。

 子供はよく自分達自身の想像的なゲームを発明する。言うなれば「警察と泥棒」で、いや私の子供達は動物に変身できるふりをするとか現代に魔法で転送されてきた19世紀の子供のふりをする類のもののほうが好きなんだが。実際のところ、子供の「ごっこ遊び」と紙のロールプレイングゲームの間には、大きな差異はない。どちらにおいても、プレイヤーはそれぞれ、ある想像上の世界における単一のキャラクターの役を演じる。主要な違いは、「ごっこ遊び」の構造は最小限だということだ。複雑な表も、アルゴリズムも、魔法のルールも、キャラクターの成長もない。公明正大なゲームマスターも。それからプロットも、ある程度はあるが、思いつきで導入されるようなものだ。

 「ごっこ遊び」をプレイする子供ですら、〈いくらかの〉構造が必要だという感触を持ち、問題が生じるごとに自分達用のルールを発明する。鳥に変身できるのは、公園の登攀遊具のところにいる時だけ。何かを攻撃したいなら、その対象に「タッチ」すること。敵である氷の巨人どもがあそこの像に住んでいるので、あそこに近付く時はこっそり動くこと。この構造は、プロットと同様、必要に応じて発明されるものだ ― しかし子供は間違いなく、構造の必要性を感じている……時々は。しばしば、発明した構造は次の遊びのセッションまで取って置かれ、そして「ごっこ遊び」が始まると、これは大抵、持ち出されたルールに子供達が合意できない原因になる。(「バン、バン、はい死んだ」「死んでねえし! 誰だよそんなこと言ったの? 何で俺が死んでんの?」)

 どんなゲームでも、これは致命的だ。同じものを遊び、同じルールのもとで動き、同じ構造の中にいるのだと、我々みんなが考え〔られるもので〕なければならない。

 「ごっこ遊び」が持つ構造は、あらゆるゲームのなかで最も小さい類のものだ。他のスタイルのゲームでは、構造は徹底して成文化されたものであり得るし、この上なく厳格なものにすらできる。例えばこれはボードウォーゲームにおいて真だ。

 ウォーゲームは六角形のグリッドが印刷されたボード上でプレイする。この六角グリッドはチェス盤の正方形のグリッドと非常に似た形で機能する。軍事ユニットは厚紙のカウンターとして表現され、盤上の六角形(「へクス」とも)の上にこれらを置く。

 ウォーゲームの基本となる構造のひとつに、「ゾーン・オブ・コントロール」(「ZOC」)がある。ひとつのユニットのゾーン・オブ・コントロールは、そのユニットに直接隣接する六つのヘクスで構成される。

 一部のウォーゲームでは、「ロッキング・ゾーン・オブ・コントロール」と呼ばれるものが使われている。ユニットが別の〔相手の〕ユニットのゾーンに足を踏み入れた際に「ロック」されるならば、このゾーン・オブ・コントロールは「ロッキング」だ。つまりこういうことだ。あなたはユニットをひとつ、あるヘクスに置いている。私のターン中、私は自分のユニットをひとつ、あなたのユニットの隣に移動させた。私はもうそれ以上移動できない ― 私〔のそのユニット〕はあなたのゾーン・オブ・コントロールの場所に「ロック」されたので、脱出させることもできないし、他のどのヘクスに移動することもできない。その後、我々は戦闘の解決を行う ― そしてこれは、あなたのユニットが死滅してプレイの場から取り除かれる結果になるかもしれない。あるいは私のほうが死滅したり、またはユニットのどちらかが退却を〔戦闘結果のルールにより〕強いられることになるかもしれない。そうなれば、もはや我々は隣接していないので、私のユニットは(生き残っていると仮定して)次のターンには移動できるというわけだ。しかし両ユニットが隣接し続けている限り、どちらのユニットも移動できない。

 よろしい、これはゾーン・オブ・コントロールの一形態だ。〈リジッド〔厳格な〕〉ゾーン・オブ・コントロールは若干異なった形で機能する。とはいえ基本のコンセプト ― あるユニットのゾーンはこれを取り囲む六ヘクス ― は変わらないのだが。ユニットは、リジッド・ゾーン・オブ・コントロールに足を踏み入れた際、そこで移動を終了しなければならない。ただし、コントロールされたヘクスから移動を〈開始〉する場合は、このユニットはそのゾーン・オブ・コントロールからコントロールされていないヘクスへ抜け出す移動が可能であり、そして移動を続けることができる。なお、コントロールされたヘクスから別のコントロールされたヘクスへ直接移動することは認められない。

 些細で小さな差異だ。そうだろう? しかしこの些細な差異は、プレイのスタイルにおける非常に大きな違いをつくっている。ロッキング・ゾーン・オブ・コントロールは、第一次世界大戦的な硬直した前線を生む傾向にある。というのは、いったんユニットを前線に参入させたら、これを別のところに再配置するのは難しいからだ。リジッド・ゾーン・オブ・コントロールはより流動的な、第二次世界大戦的なゲームを生む傾向にある。ユニットをいつでも撤退させ、別のどこかの攻撃に向けさせることができるためだ。

 ゾーン・オブ・コントロールはこの二種類だけではない。私はティーンエイジャーの頃、SPIという名のウォーゲーム出版社で働いていた。あるとき、私はSPIの様々なゲーム全てから採集したルールで構成された、巨大な一巻本をまとめあげた ― これを見れば他のウォーゲームデザイナーが過去にどのようなテクニックを発明しているのか確認できる、ゲームデザイナー用のリファレンスだ。そこには少なくとも一ダースの種類のゾーン・オブ・コントロールがあった ― 我々がそれらをどういう用語で呼んでいたのか全ては憶えていないが、セミ・リジッドとかフルイド〔流動性〕とか、あとは神のみぞ知るところだ。

 それで? つまりこうだ。ゾーンオブコントロールはウォーゲームのための基本要素〔ビルディング・ブロック〕のひとつだ。全てではないが、ほとんどのウォーゲームが使っている。ほとんどのウォーゲームは同様に、地形効果チャートや戦闘結果表や移動力といったものを使っている ― これらの一連のコンセプト全体が、ボード・ウォーゲームに固有のものだ。これらの「ルール・メカニクス」を組み合わせて、あなたは構造を築き上げる。あなたはゲームの機能を定義づけそしてゲーム内でのプレイヤーの振る舞いをガイドする、コンセプトの枠組を築くのだ。あなたが使うあるメカニクスにおけるどうでもいいような差異が、プレイヤーの振る舞いに大きな差異を産み得る ― ゾーン・オブ・コントロールにおけるロッキングとリジッドの違いについて見てきたように。

 ボードゲームにおいては、この構造は概ねルールそのものに内包されたものだ。ある面はゲーム盤のトポロジーやら齣とかカードとかその他の内容物に印刷された情報やら諸々にも含まれてはいるけれども。この構造は従って、プレイヤーが直接認知できるものだ。とはいえ理解するとなるとプレイヤー側の努力が必要になるが ― かれ彼女はルールを学び熟達しなければならない。

 電子的ゲームは異なる形で機能する。その構造の多くはユーザーには見えない。構造はコンパイルされたソフトウェアのコードに内包されている。ボードゲームでは、プレイヤー達はゲームをプレイするのと同様、言うなれば、ゲームを運用することにも責任を負っている。計算しなければならないとかアルゴリズムを適用しなければならないとなった場合、必要ならばルールを参照しながら、プレイヤー達がこれを行わなければならない。電子的ゲームでは、この「ルール」はソフトウェアに組み込まれている。プレイヤーはそのゲームをプレイすることにより得られる経験を通じて、ルールに対する理解を得ていくものであり、個々の子細については無知なままでいてもおかしくない。その代わり「腹落ち」はする ― つまりゲームの運用についての本能的な理解だ。

 しかし、構造はここにあるのだ ― そして、ゲームデザインがグラフィックデザインと異なる点を強調して言うが ― これはプレイヤーへ表出される個々のグラフィカルな形態からは独立したものだ。ゲームプレイのアルゴリズム、「ルール」、ゲームのアイテムの振る舞いを制御する数値データ、これらは3Dモデルやビットマップのイメージ、それをスクリーンに映し出すコード、何かイベントが起きたことをプレイヤーへ示すアニメーションといったものからは独立している。

 電子的ゲームの構造はボードゲームのルールと同じ流儀でプレイヤーの振る舞いに影響するだろうか? 言うまでもない。例えば、『ウルティマ・オンライン』と『エバークエスト』は、多くの点で非常に似通ったゲームだ。両方とも、ファンタジー世界物の多人数同時参加オンラインゲーム ― グラフィカルMUD ― だ。どちらにおいても、キャラクターは主にモンスターを殺すことで成長する。どちらにおいても、キャラクターはゲーム上の実際の価値を持った多くの〈もの〉、つまり武器とか鎧とかマジックアイテムといったものを集める傾向にある。

 このふたつのゲームには一点、小さなことのように思える違いがある。『ウルティマ・オンライン』では、他のプレイヤーキャラクターを攻撃し、殺すことができる。『エバークエスト』ではできない。どちらのゲームでも、キャラクターはほぼ常に、同等の力を持ったモンスターよりも多くの価値あるものを持っている。従って、『ウルティマ・オンライン』では、成長のための最も早い道は、他のプレイヤーキャラクターを殺すことだ。殺した奴の武器と鎧とマジックアイテムを全て獲得できる。

 結果としては、『ウルティマ・オンライン』はほとんどの状況下においてホッブス的な万人の万人に対する闘争であり、ゲームは明らかな恐怖で満たされ、そこでは潜在的な致死性の遭遇を避けるべく人々は互いから逃れようとしている。『エバークエスト』では対照的に、プレイヤーはしばしば立ち止まって互いを助けようとし、通りすがりの人と立ち話などを始め、ふつうは一定の社会的連帯があるものとして振る舞う。

 私ははっきりと後者の方を好んでいる ― 『ウルティマ』にも自身の強みは存在していて、特にゲームマスターがより積極的に関与してプレイヤーがやるべき面白いものごとを創ってくれるという事実がありはするのだが。そして『ウルティマ』式のほうを好むプレイヤーもいる。結局のところ、ある面では、こちらのほうがより効果的にバーチャルなコミュニティを創るのに役立つのだ。他の人たちのグループに参加できれば生存の可能性がずっと高まるから。

 しかしここで重要なのは、構造における小さな変化がプレイヤーの振る舞いの大きな変化を生む、ということだ。

 文学批評がしばしば小説の「構造」を述べているが、物語構造はゲームの構造とは大きく異なる。文学のコンセプトとしての構造は、視点に関係するものだ。時間の扱い(物語が単一の、時間に沿って進む語り《ナラティブ》なのか、後説法《フラッシュバック》があるのか、あるいは時をさまよう複数の視点があるのか)や、物語を築き緊張を解放する方法など。しかしこの物語の構造は、単一の変化しない語りを創るものであり、これを読者が変えることはできない。語りの構造は一次元だ。ひとつの物語を通るひとつの経路しかたどることができない。

 ゲームの構造というのは、それによってゲームがプレイヤーの振る舞いを形作る、その手段に関するものだ。しかしゲームはプレイヤーの振る舞いを〈形作る〉のであって、決定するのではない。実際、良いゲームというのは、別の戦略やアプローチを試すための相当な〈自由〉をプレイヤーに与えるものだ。ゲームの構造は多次元だ。「ゲーム空間」を通る多くの可能な経路をプレイヤーがたどることを認めるものだからだ。

 しかし重要なのは、如何にして、そして何故、ゲームの構造がプレイヤーの振る舞いを形作ることを〈している〉のか、理解することだ。実際、これを理解することが、ゲームデザインの技巧をマスターする根本になる。様々なゲーム要素の束を単にまとめて投げつけても、それらが結合するのを期待することはできない。どのような経験をあなたのプレイヤーに与えるか意識的に決めようとしなければならず、そしてその経験を可能にするシステムを創らなけばならない。

 この点についての芸術的失敗の例として、ふたたび『ウルティマ・オンライン』におけるプレイヤー対プレイヤーの衝突(「プレイヤーキリング」とか「PK」とか呼ばれる)の推奨を考えよう。はたして〔リチャード・〕ギャリオット〔Richard〕Garriottは、これがプレイヤーが『ウルティマ・オンライン』におけるプレイヤーのやりたいだろうことであり、より魅力あるゲームを作ることになるだろうと信じて、PKの推奨を〈選んだ〉のか? 彼はPKを推奨するよう望んで、PKに報酬を与えるようこのゲームを意図的に構造付けたのだろうか?

 明らかに違う。彼の以前の(一人用の)『ウルティマ』では、プレイヤーを社会的で倫理的な道へ手引きするよう慎重で意識的な努力が為されていた。ギャリオットは、ゲームが倫理的なサブテキストを非常に真剣な形で持つことができるというアイデアを持ち込んだ人間だ〔おそらく1985年の作品『ウルティマIV Ultima IV』を指している〕。疑いなく、彼は自分のゲームで起きているプレイヤーキャラクター殺害の水準に肝を潰しているだろう。

 それでは何故、彼は殺人を推奨するようなゲームをデザインしたのか? 思うに、プレイヤーに自由意志を与えようというリバタリアン的な欲望から、プレイヤーが望むなら卑劣な行為の実行も認めたのではないか。『エバークエスト』の対照的なPK禁止は、確かに、圧制的だ。これを正当化できる唯一の理由は、これが機能するということだ。しかし同じ結果を得るためプレイヤーのインセンティブを構造付けるもっと洗練された方法は存在する。あなたは、殺人者を狩り出し処刑する強力な非プレイヤーキャラクターのいる、圧制的な政府を立てることができる。〔殺人者〕狩りへの懸賞金を掛けることで、殺人よりも殺人者を殺すほうが儲かるようにもできる。ゲームの文脈《コンテクスト》においても人々の間にある種の血族関係とコミュニティの絆を養い、警察がいなくても互いを殺し合わないようにしようとすることもできる。

 不可能なのは、秩序がプレイヤーの善意を通じて自発的に生じると想定することだ ― 少なくとも、殺人の報酬が強烈かつ個人に与えられるものなのに良き市民として行動する報酬が主に他の人たちに付く僅かで散らばったものである時に、生じるものではない。

 ゲームの構造は経済の構造に類似している。経済学者は、人々が直面する経済的インセンティブに反応して「効用を最大化」しようとするものと仮定している。これは必ずしも全員がお金を最大化しようとするわけではない。お金は人々が直面する唯一のインセンティブではないのだ。力や名声や愛への渇望はしばしば、純粋な金銭的動機に勝る。しかし〔いずれにせよ〕経済学者は、人々が概ね合理的に振る舞うものと仮定している。

 同じ事がゲームにも言える。概ね、プレイヤーはゲームが提供するインセンティブに反応する。常にではない。プレイヤーは時々、天邪鬼なことをするのに喜びを感じるからだ。しかし前に言った通り、我々がゲームと交わす基本的な取引のひとつは、ゲームの目標が我々にとって重要なものであるかのように行動する、ということだ。従って、殆どの場合は、プレイヤーはその構造を利用して自分の目標を成し遂げる道を探すだろうし、これはゲームのインセンティブに反応することを意味する。

 別の言葉で言えば、ゲームの構造は経済やエコシステムの同類だと考えれば〔理解の〕助けになるということだ。複雑な、相互作用《インタラクト》するシステムであって、結果を指図したりはしないが、単一の目標を成し遂げる必要性を通じて振る舞いを手引きする。単一の目標とは、エコシステムの場合はエネルギーだし、経済の場合はお金だし、ゲームの場合なら勝利だ。

 実際、私の思い通りにやれるなら、ゲームデザインについて学ぼうとする誰に対しても、経済学の確かな基礎を要求するだろう。

 ゲームとは、プレイヤーに目標へと向かう苦闘を要求する、インタラクティブな構造だ。

ENDOGENOUS MEANING

内因的な意味

 ビデオゲームのごとき子供っぽいものが〈本物の〉芸術作品のような批評的分析の対象になり得ると考えている気取った阿呆の割にはこいつはずいぶん単純な言語を使うじゃないか、とあなたは気付いたかもしれない。「目標」とか「苦闘」といった言葉の代わりに、もっと簡単に学究たちを唸らせることのできる、仰々しくも長々しい造語を使うこともできただろう。しかしここでは「内因的〔endogenous〕」よりも簡単な語を考えられなかったので、押しつけてしまって申し訳ない。

 内因的な意味。何じゃそりゃ?

 辞書によれば、内因的ということの一つの定義は、「組織やシステムの内側の要因によって〔生じるもの〕」となっている。

 その通り。ゲームの構造は〈それ自身の意味を創る〉。意味は構造から生じる。意味は構造によって生じるのであり、つまり意味は構造に内因する。

 あなたが通りを歩いていて、誰かがあなたに『モノポリー』紙幣$100をくれたとしよう。これはあなたにとって何も意味しない。『モノポリー』紙幣は現実世界では何も意味しないからだ。そのお札をあなたにくれた人物は、たぶんある種の狂人だろう。

 しかしあなたが『モノポリー』をプレイ中なら、『モノポリー』紙幣には価値がある。『モノポリー』は一人を除く全プレイヤーが破産するまでプレイし、その残った一人が勝者となる。『モノポリー』においては、ゲームに持ち込まれる、派手な色のついた小さな紙幣が、成功と失敗を決定する。『モノポリー』紙幣は『モノポリー』のゲームに内因する意味を持っている ― プレイヤーにとって極めて重要な意味なので、だからあなたは自分の妹を、こちらが見ていない隙に銀行から紙幣をくすねたりしないよう、鷹のように監視しないといけなくなる。

 別の例を挙げよう。私の『エバークエスト』のキャラクターは、レベル7の時、ゲームから離れようとしていて私に武器をあげることに決めた誰かから、ブラッドフォージ・ハンマーをもらった。自分自身でブラッドフォージ・ハンマーを得ることは可能だが、ゲーム内にある相当に入り組んだクエストを達成する必要があり、そのようなクエストに私が7レベルで成功する可能性はほとんどなかった。ブラッドフォージ・ハンマーは私にとって本当に凄い武器であり、私のキャラクターを早く成長させる助けになった。

 このブラッドフォージ・ハンマーは、『エバークエスト』をプレイしている際にスクリーン上に描画される3Dモデルとして、また『エバークエスト』のゲームサーバーによる処理における数値および論理値の組としてのみ存在している。具体的な現実世界の表象はなく、『エバークエスト』のゲームを除いていかなる文脈における価値もない。

 これは全くの真実ではない。私が望めば、eBayに行ってブラッドフォージ・ハンマーをオークションにかけ、それで現実の金を稼ぐことができる。実際にいくらくらいの金になるのかはわからないが、可能なのは間違いないと思う。人々はしばしば『ウルティマ・オンライン』や『エバークエスト』のキャラクターや所有品やゲームマネーをオークションにかけている。だから、私がブラッドフォージ・ハンマーを米国の決済通貨に換えることができる以上、ブラッドフォージ・ハンマーには「現実世界における意味」があると論じることもできる。

 しかしやはり、この現実世界の価値は、『エバークエスト』の文脈においてしか存在しない。『エバークエスト』の出版社であり運営であるベラント Verant が明日ビジネスをやめて、『エバークエスト』のサーバーがシャットダウンされたら、私が概念上保有しているブラッドフォージ・ハンマーは、直ちに意味を持つことを止める ― そして誰もこれに喜んで金を払おうと思わなくなるだろう。

 我々はもう秘伝の完全な「ゲーム」の定義を持っているだろうか? 内因的な意味のインタラクティブな構造であって、プレイヤーに目標への苦闘を要求するもの?

 時に、定義をテストして、入れたいものが全部含められているか、入れたくないものを弾いているか、確認するのが有用なことがある。斯様に…株式市場はゲームか?

 株式市場はインタラクティブだ。あなたが株式を取引すれば、あなたは株価に影響を与える。ほとんどの場合、与える影響はごくわずかだが、その株の取引量が少ない場合や、あなたが機関投資家で大量の株式を取引している場合は、あなたはその株式をかなり動かすことになるだろう。

 株式市場には間違いなく構造がある ― 実のところ、法で正式に記してある。

 株式市場における取引は間違いなく苦闘だ。S&P500をアウトパフォームするのは簡単ではない。投資運用管理者なら誰でもそう証言できるだろう。

 そして株式市場には間違いなく目標がある。「プレイヤー」たちはメイクマネーしようと求めている。

 しかし株式市場の意味は〈内因的〉ではない。この市場で我々が取引するものは ― 会社の株だ ― この株式市場があした蒸発してしまっても、意味を持ったままだ。確かに、もしニューヨーク証券取引所があした消えてしまったら、私が保有するゼネラルモーターズの株を売るのは難しくなるだろう。証券市場は株式のための、流動的で反応の良い、容易に手の届く市場を提供している。しかし株式市場は株式のための唯一の市場というわけではない。例えば人々は、株式市場に上場していない非公開会社の株式を買ったり売ったりしている。ベンチャーキャピタリストは毎日これをやって、資本を提供する会社の持主に参画している。

 公に取引されていない会社の株について買主や売主を見つけるのは難しい ― そしてそのような会社の株には活発で流動的な市場がないから、「フェア・マーケット・バリュー」を決めるのは難しい。しかしこの株式には現実世界の価値がある。この株式はある会社の部分的なコントロール権を表したものであり、また配当や将来の成長への関与を表したものだ。株式市場は取引を容易にするためのメカニズムであって、その市場を通じて取引される株の意味を創造するものではない。

 株式市場とゲームとの間のこの違いは、ノンフィクションとフィクションの間の違いだ。ノンフィクションとフィクションのいずれも、散文の作品だ。両者ともに適用でいる同じ執筆のテクニックが数多く存在し、そして(上質の)ノンフィクションの書き物は、フィクションがそうであるのと同様、「文学」の名を冠する価値があるものとみなされる。しかし両者の間には根本的な区別がある。ノンフィクションは少なくとも、現実世界に「関する」ものであろうと試みている一方、フィクションというのは幻想《ファンタジー》だ。

 ゲームは幻想《ファンタジー》だ。私が言いたいのは、あらゆるゲームがオークやエルフや魔法の呪文についてのものだということではない。あまりに多くのゲームが実際そういうものではあるが。これが現実ではないというのは要点の一部だ。フィクションと同様、ゲームは自らの文脈を供するものだ。小説においては、作家は世界の絵を描き、キャラクターを描写し、読者のために文脈を提供する。その小説が含んでいるものの多くが現実世界から引いてきたものであったとしても、これは現実の出来事の正確な表現ではないと理解することが読者には期待されている。そうではなく、読者はこの非現実の文脈に引き込まれ、記述される出来事やキャラクターから、またそれを記述する芸術家の技能から、楽しさを受け取るものと想定されている。時に、フィクションが毎日のことがらを予期せぬ形で再文脈化することがある。サミュエル・R・ディレイニー Samuel R. Delaney が指摘するとおり、「彼女の世界は爆発した」というフレーズは、サイエンスフィクション小説と現実的なフィクション小説で全く異なった意味を持っている ― そしてポルノ小説ではまた別の意味になるだろう。

 ゲームも同じ事をやっている。「ブラッドフォージ・ハンマー」には、『エバークエスト』の文脈内を除き、意味がない。「ポーン」という言葉は『チェス』の外側に確かに意味を持っているものの、この言葉はこのゲームにおいて固有の意味を持っており、外部におけるこの言葉の意味とは、テーマ的にはリンクしているが、その他の点では独立している。ロイヤルフラッシュは、『ポーカー Poker』の文脈以外では、貼り合わせた厚紙の意味の無い組み合わせだ。『クエイク』のデスマッチでキルを取っても現実世界でのあなたには何の作用もないが、あなたがこのゲームをプレイしている時であれば歓喜や満足を引き出すことができる。

 このゲームとフィクションの間の類似性は、過剰に取るべきではない、と注意しておくべきだろう。多くのゲームは、それらが現実世界の出来事を一定水準の正確性をもって描写したりシミュレートしたりしようと試みているという意味で、「ノンフィクション」だからだ。

 十五年前、私は『インペリウム・ロマヌムII Imperium Romanum II』(Albert A. Nofi)というゲームの仕事をしたことがある。これはマリウスとスッラの衝突からユスティアヌスによる帝国再征服の試みまで、ローマ人の内戦をシミュレートしようとする真剣で学問的な試みだった。デザイナーによるリサーチと詳細への細心の注意は驚くべきものだった。私は断固として主張するのだが、ローマ人の軍事、後期共和政から帝国へと至る流れにおける変化、そして帝国の内部対立の本質については、この主題について書かれた六冊の本を読むよりも、ノフィ Nofi のゲームを研究することでより学ぶことができる。場合によっては、ゲームは物語よりも良いものだ。というのは、線形的な物語は可能性ではなく出来事そのものに固着しなければならない一方、ゲームはシステムを探検して別の選択肢を体験することを認めているからだ。

『インペリウム・ロマヌムII』はノンフィクション・ゲームだが、しかしゲームだ。レギオンという概念には外部の意味があるが、このゲームの文脈においては、それは固有の数値と能力を持つ、型抜きされた厚紙カウンターだ。ローマ街道という概念は現実世界から引いてきたものだが、このゲーム内でのローマ街道は、あるいくつかの属州のヘクスに入る移動力コストを減らすものだ。属州の概念は現実のものだが、ゲーム中では、属州はヘクスの集まりであって、それを所有するプレイヤーにひとまとまりで収入をもたらすものだ。『インペリウム・ロマヌムII』は現実から引いてきたものだが、しかし現実を〈再文脈化〉して自らの内因的な意味を確立している。

INTERACTIVE ENTERTAINMENT

インタラクティブな娯楽

 ようやく我々は「ゲーム」の機能する定義を手に入れた。内因的な意味のインタラクティブな構造であって、プレイヤーに目標への苦闘を要求するものだ。

 ここから直ちに生じる疑問がある。もし「ゲーム」が「インタラクティブな娯楽《エンタテインメント》」のサブセットなのであれば、どのような形式のインタラクティブなエンタテインメントが我々の定義から除外されるのか?

 私の回答。何もない。あるいは、価値のあるものは何もない、と言ってもいいが。

 多くの人々は合意しないだろう。例えばインターネット上には、ゲームを全く欠いた「インタラクティブなエンタテインメント」がいくらでもある。しかしこれらを探査してみれば、これらが全くそういうものではないことがわかるだろう。むしろ、これらはインターネットの技術を使って、〈非インタラクティブな〉体験を提供している。あなたが読むための記事や、観るだめのビデオクリップや、ダウンロードするための音楽を提供するウェブサイトは、実際エンタテインメントを提供している ― しかしこれは、いかなる意義ある意味においても、あなたにそのエンタテインメントと〈インタラクト〉させてはくれない。同じ資料は印刷物やビデオカセットやCDでも手に入る。

「内因的な意味のインタラクティブな構造であって、プレイヤーに目標への苦闘を要求するもの」どんな種類のインタラクティブなエンタテインメントなら、これ〈以外の〉何かでありうるのか?

 構造化されていないものというのはあり得る。全くの自由形式で構造化されていない形のエンタテインメントというのを想像するのはどうにもうまくいかない。単純な会話というのはあるだろうが ― そして確かに人々はオンラインチャットに面白み《エンタテイニング》を見出している。しかし、単に私が何か面白みを見出したというだけでは、それが〈エンタテインメント〉であるということを意味しない。例えば私は、そうすることに面白みがあるという理由で、よく歴史〔書〕を読んでいるのだが、それを読むことにどれほどの面白みを見出し得るものだとしても、だれも歴史書をエンタテインメントだとは見ていない。歴史〔書〕にそれ自体の価値はある ― そう言って良ければ、内因的な意味がある。エンタテインメントは副次効果であり、目的ではない。同様に、会話は面白みのあるものでありうるが、〈それ自体においては〉エンタテインメントではない。

エンタテインメントの形式であるためには、ある種類の構造が要求される ― そして内因的な意味が要求される。この形式は自らを文脈化しなければならず、その作品の文脈自身の内に道理を持つ意味を提供しなければならない ― 映画も音楽も小説も全てそうだ。それが「内因的」ではないと言えるのは、その意味が現実世界と一対一で直接的に接続する場合だけだ ― 歴史や株式市場のように。意味が現実世界と直接的に接続していたら、何か実践的な価値が生まれてしまい、エンタテインメントの形式ではなくなる。

 おそらく、ゲームではない「インタラクティブなエンタテインメント」は苦闘を避けたものではないか? これはあり得る。『おばあちゃんとぼくと Just Grandma and Me』のような作品は、子供向けのインタラクティブなストーリーブックで、苦闘はべつだん伴わない。アイコンをクリックして、少々のキュートなアニメーションを観て、文を呼んで、次の頁へ行く。四歳の子はこれに面白みを見出す。古いボイジャー Voyager 社のCD-ROM製品群の多くは本質的にこれと同じことを大人向けにやっている。何かをクリックして、何かキュートなものを観て、先へ行く。これは私にはかなり忌々しいほど退屈に思える ― そしておそらく、「エンタテインメントCD-ROM」というものがゲームを除いてもはや基本存在しないのも、これを暗示している。

 あるいはおそらく、目標のない「インタラクティブなエンタテインメント」というものがあり得るのでは? 再びだが、原理的にはあり得る。目標のない、インタラクトする理由のない、目的のない、意味のない、インタラクティブな〈もの〉、不毛なエンタテインメント製品ならありうる。これは、あー、不毛だ。

 サイエンスフィクション作家のシオドア・スタージョン Theodore Sturgeon は、高度に文学的な家族の中で育った。彼が物語を喋るようになると、彼の親は子供達に、『白鯨 Moby Dick』のような大人の作品を含む、あらゆる種類のフィクションを読み聞かせるようになった。スタージョンは少年時代に、当時の最良のサイエンスフィクション誌である『アスタウンディング・ストーリーズ Astounding Stories』を(そうと知らずに)自分の金で購入し、これを家に持ち帰った。彼の父はこれを掴んで、半分に引き裂き、ゴミ箱に放り投げた。「これはこの家でゴミを処理するやり方だったんだ」と彼は語っている。

 サミュエル・ディレイニーは、このような極端な嫌悪を生じさせる文学を「パラ文学〔paraliterature〕」と呼んでいる。「これはテクストに対する極端な反応だ」と彼は言う ― そしてそれは実際にそうだ。疑いなく、その号の『アスタウンディング』の多くはくだらないものだった ― しかし『アスタウンディング』はまた、40年代と50年代の最良のサイエンスフィクションのいくつかを出してもいたのであり、その多くは今でも印刷されている。サイエンスフィクションの全体としての価値を論ずることもできるのだが、しかし疑いなく言えるのは、サイエンスフィクションの〈一部〉には、真の文学的価値があるということだ。

 ゲームではない「インタラクティブなエンタテインメント」の探求は、ゲーム嫌悪に動機付けられたものだ ― ゲーム、あの文字も読めない粗野なちびじゃり小僧どものための安っぽくもけばけばしい暴力的で不快で下劣なポップカルチャーの娯楽。「ゲーム」のごとき幼稚で胸糞悪いものでも成し遂げられるようなものよりも何かもっと「高尚」でもっと優れていて価値のあるものを望む連中による探求だ。

 短く言えば、ゲームではないインタラクティブなエンタテインメントの探求というのは、頑迷でゲームを認められないことに基づいたもので、また我々の文化において今現在ゲームが代表するものに対する愚かで反射的な反応でもある。

 どのような形式の、ゲーム〈ではない〉「インタラクティブなエンタテインメント」も、インタラクティブでないか、エンタテインメントでないか、あるいは不毛なものだ。

 インタラクティブなエンタテインメントの中で芸術を成し遂げることは可能だ。過去にも成し遂げられてきたし、未来にも成し遂げられるだろうし、この分野の成熟と共に、想像的なクリエイティビティで屹立する作品たちが分野の中で不可避的に生まれるだろう。しかしゲームから目を背けるなら、あなたは間違ったところを見ていることになる。

 インタラクティブなエンタテインメントとは、ゲームのことを〈意味する〉

LEBLANC’S TAXONOMY

ルブランの分類法

 これで、魅力あるゲームを創るためにやらないといけないことについて何かしらの洞察を得られる、ゲームの機能的な定義が手に入った ― 目標を提供し、内因的な意味を創り、構造を確立し、プレイヤーが間違いなく苦闘するようにしなければならないのだ。しかし我々はなお、ゲームのどの部分に人々が魅力を見出すのか見ていく必要がある。そしてこの目的においては、マーク・ルブラン Marc LeBlanc によるゲームの快《プレジャー》の分類法〔 http://algorithmancy.8kindsoffun.com/ 〕を借りてくるのが有用だと思う。彼は8種類の快があると言っている。そのうちの一つが感覚刺激《センセーション》で、この言葉で彼が言っているのは感覚的な快のことだ。


感覚刺激  Sensation


 良いビジュアルは感覚的な快の一形態だ。我々は可愛いゲームが好きなのだ。音は重要だ。ある種のゲームでは、触覚的な快も重要になる。時に、ゲームの操作がしっくりと馴染んでいるように感じることがある。ある種のゲームでは、筋肉的な快も同じように重要だ ― スポーツは明らかにそうだが、『ダンスダンスレボリューション』のような日本のアーケードのダンスゲームの魅力も、その一部はおそらくこれだ。

 感覚刺激だけで産み出せる違いの例として、ボードゲーム『アクシズ・アンド・アライズ Axis & Allies』を考えよう。私がこのゲームを最初に買ったのは、知られざるホビーゲームの出版社ノヴァ・ゲームズ Nova Games から出た時だった。そこにあったのは、あまりにもけばけばしいゲーム盤に、軍事ユニットを表す醜い厚紙のカウンターだった。一回だけ遊んで、だいぶ詰まらなく感じ、放り捨ててしまった。何年か後、ミルトン・ブラッドレー Milton Bradley 社がこのゲーム〔の権利〕を買い、エレガントな新しいゲーム盤、航空機や船や戦車や歩兵をかたどった数百のプラスチック齣とともに再出版した ― 私は以降、このゲームを何度も遊んでいる。複数の小さなミリタリー・フィギュアを盤上であちこち動かすのは全くの触覚的な喜びで、これがこのゲームを遊んで楽しいものにしている。

 ただしここで認識しておかなければならないのは、グラフィックデザインや、より一般的に言えばメディアデザインは、それ自身ではゲームデザインではない、ということだ。これはゲームを理解していない多くの人間が犯す誤った考えだ ― なぜかといえば、誰かがゲームをプレイしているところを観察してこの連中が見て取るのは、画面上の動きだからだ。ゲームデザインとは脚本の執筆あるいは映画製作だと考えるのも無理はない。ハリウッドから我々のフィールドに移ってこようとやってきた人間が、自分が「エンタテインメントを理解している」と主張することがよくある ― 少なくとも連中は、映像的で線形なエンタテインメントについては理解している。こういう人間は美しいけれどもだるいゲームを作りがちだ。

 感覚的な快を創り出すことは重要だし、あなたがデザインする時は、これをどうやって作り出すか考える価値はある。ただしこれは補助的な要素であって、デザインの本質ではない。

 実のところ、感覚的な快を実質全く欠いた美しいゲームというのもあり得る。私の意見では、『ネットハック NetHack』はこれまでに作られてきたうち最良のゲームの一つだ。私はいまでも遊んでいるし、もう15年以上、所有したコンピューターの全てにこれを入れている。このゲームは純粋にASCII文字のみで構成されている。


幻想  Fantasy


 ルブランの快の第二のカテゴリは幻想だ。彼はこの言葉で、文字通りオークやエルフや魔法の呪文のある舞台のことを言っているわけではなく、不信の停止というフィクション上の概念に類似したことを言っている。

 小説に没頭するのが楽しいのとちょうど同じように、〔ショッピング〕モールで複数のキャラクターと遭遇するかもしれない現代が舞台になっているのであれ、過去や未来や完全に想像上の世界が舞台になっているのであれ、ゲームの虚構上の構築された世界に没頭するのは楽しい。

 『チェス』のようなアブストラクトゲームは、この〔カテゴリでの〕得点がよろしくない。自らの内因的な意味以外の何物への接続もほとんどなく、幻想面での魅力を供することがほとんどないからだ。これは欠陥ではない。このゲームがふたつの国の人間達による戦争であることを説明する冒頭のカットシーンを入れても、チェスがそれによって恩恵を受け得るとは思わない。

 しかしあなたがゲームをデザインする際は、いかにしてあなたの行うあらゆることがゲーム世界のらしさを、そして没入を維持するのか考えるのが重要だ。適切な言葉で書いたり、舞台に相応しいグラフィックスタイルを使ったり、この舞台の何かの側面をシミュレートしているように感じられるシステムを使ったりといったことの全てが、ゲームの幻想を強化する。


物語表現  Narrative


 ゲームがストーリーテリングのエンジンであるか否か、あるいはそうであるべきか〈否か〉という疑問は、議論を呼ぶものだ ― あらゆるゲームが物語を必要とすると主張する者もいれば、ゲームと物語は正反対のものだと主張する者もいれば、物語は一部のゲームでは役立つ要素だが全てのゲームについてそうではないとする者もいる。個人的には私は最後の主張を取りがちだ ― 『チェス』は冒頭にそれが複数の国の人間達による戦争であることを説明するカットシーンを足してもより良いものにはならないだろう ― しかしストーリーのないグラフィックアドベンチャーは実にだるいものだ。

 しかし、「物語表現」という言葉で、ルブランは文字通りの物語への愛着を言っているのではない。彼が言っているのはこちらのほうに近い……ゲームはドラマの感覚を提供するべきだ。

 あなたは間違いなく、教師が物語の流れを図示しているような英語〔国語〕の授業を受けたことがあるだろう ― 典型的には、クライマックスへ導く緊張の高まりの感覚を図示したものだ。これはゲームについて考える一般的な方法でもある。クライマックスや達成の感覚を導く緊張の高まり。時には、緊張感の小さなピークが数多く存在して、その間に息をつく瞬間があるとか。

 これはグラフィックアドベンチャーのような定まった筋のあるゲームのほうが、『シヴィライゼーション』のようにアルゴリズム・ドリブンなゲームより簡単に成し遂げられる。しかしアルゴリズム・ドリブンなゲームであっても、緊張の高まりや時間と共に生まれるドラマの感覚をどのように駆動するかというのは、考える価値がある。


挑戦  Challenge


 ルブランの第四のカテゴリーは挑戦だ。これは我々の苦闘の概念と等価なものだ。

 これまで議論してきた通り、これがあらゆるゲームの心臓だ。幻想や物語表現は無しで済ませることもできるが、挑戦を無しで済ませることはできない。そしてデザインの際は、プレイヤーがあなたのゲームの何に挑戦を見出そうとするか、そしてなぜその挑戦が魅力的なのか、見極める必要がある。そして前に言ったように ― 仕様の段階よりもテスト中にということが普通だが ― ゲームが簡単になりすぎたり難しくなりすぎたりならないようこの挑戦を調整しないといけない。

 ついでながら、これは無線ゲームやより一般的に言えばネットワークゲームのほうが、伝統的なゲームよりもうまくやれる分野だ。箱入り製品の世界では、出荷するものに縛られる ― たしかに、少なくともPCのタイトルならパッチを出すことはできるが、ほとんどの人々はパッチをインストールしようとはしない。ゲームを簡単にしすぎたり難しくしすぎたりしたら、後から換えることはできないのだ。ネットワークに繋がった環境であれば、プレイヤー達がどのように反応するか見るため観察を行い、そして必要に応じてゲームを修正できる。


親交  Fellowship


 ルブランによる親交の概念は、オンラインゲームの人々がコミュニティと呼んでいるものに近い。コミュニティはその種のゲームの魅力の中心にあるものだ。『シムズオンライン Sims Online』の長であるゴードン・ウォルトン Gordon Walton が言うように、「かれらはゲームのためにやってきて、コミュニティのために留まる」。例として『エア・ウォーリア Air Warrior』というゲームを見てみよう。元をたどれば古のオンラインサービスGenie〔アメリカのパソコン通信サービス〕用に1984年にローンチされたものだが、今でもEA.comで運用されている〔厳密に言えば、本稿の公開よりも前の2001年にサービス終了している〕。このゲームには、20年近くにわたって会員を継続している人々がいる ― そして会員を継続してはいるが自分自身を「退役空軍大尉某《なにがし》」だと任じている人々がいる ― これはつまり、この人達はもはや実際にゲーム内で飛行はしておらず、チャットルームでぶらぶらして仲間と四方山話をするために来ているのだ。

 より一般的に言えば、共有された濃密な体験は仲間意識を育む。あなたの友達と喋ることの内容を考えてみよう ― スポーツかもしれないし、ショッピングかもしれないし、両方ともが読んだ本や観たテレビかもしれない。しかしゲーマーなら、それはしばしば、プレイしたゲームの話になるだろう。直接的には体験が共有されないオフラインのゲームであっても、共有された体験は他の人々との接点を、そしてその人たちを親しく感じる理由を提供するのだ。


発見  Discovery


 発見は多くのゲームの魅力におけるもう一つの大きな部分だ。

 一部のケースでは、これは文字通り、ゲームの世界の探検のことだ。例えば、『シヴィライゼーション Civilization』の開始時点の状況は何か非常にエモーショナルな魅力がある。あなたのたったひとりの開拓者が位置する小さな明るいマス、これを取り囲む、あなたがまだ探検していない広大な暗黒世界。『エバークエスト』で新しいダンジョンに入るのは何かエキサイティングなものがある。一瞬も気を抜かず、至る所にいる、予期せぬ、時に死を招くモンスターを警戒しながらおずおずと行う、廊下や空洞の探索。

 しかし発見というのは、隠された情報を明らかにすることをも意味する。これはたとえば『ポーカー』の魅力だ。他の誰かが伏せたカードが何であるか判別しようと試みること、あるいはディーラーからフラッシュを完成させたりさせなかったりするカードを配られたときに自分の唇を噛んだりすること。

 そしてこれは、ゲーム空間の絶対的な多様性の結果でもあり得る ― 『マジック:ザ・ギャザリング Magic: The Gathering』はこの良い例だ。『マジック』のカードは極めて多種多様なので、あなたは何回も遊んでも、そのたびにそれまで見たこともなかったカードに出くわす ― そしてよく知ったカードを予期せぬ賢いやり方で組み合わせたデッキにも。


表現  Expression


 この言葉でルブランが本当に意味しているのは「自己表現」だ。全ての、ではまったくないが、一部のゲームはプレイヤーに、そのゲームの文脈における自分自身をどのように呈示するか選ばせるため、自らを表現する方法を与えている。

 これは例えば卓上RPGやMUDやMMORPGにおいては明らかに真だ。これを通じて我々は他者と語っている。自分の名前の選択によって、そしてドレスの選択によってすら、我々は自分自身について何かを他者に語っているのだ。そして多くの場合、他者とのこのようなインタラクションは、キャラクターの内でおこなうものであれ外でおこなうものであれ、我々が遊ぶ主な理由のひとつになる。

 これは古典的なゲームでも同じように真だ。我々は『ハーツ Hearts』や『ポーカー』を、ゲーム自身の体験のためばかりではなく、他人との社交的な活動に携わるために遊ぶ。雑談はプレイと同じくらい重要だ。

 しかしこれは、ある程度までは、多くのソロプレイのゲームにおいても真なのだ。例えば『デウスエクス Deus Ex』では、道を阻むなんでも撃つような暴力的な奴として勝つこともできる ― あるいは隠密行動を取ったり助けてくれるようNPCを説得したりして、何をするにせよ銃を避けて勝つこともできる。『ブラック&ホワイト Black & White』では、悪の道を選ぶこともできるし、美徳の道を選ぶこともできる。『シヴィライゼーション』では、世界を征服することもできるし、技術的な卓越によって勝つこともできるし、友人を作って国連の長として選出されることもできる。

 時にちょっとした仕掛けが大きな効果を生むことがある。キャラクター名の選択を認めるというようなほんの些細なことでも、人々にささやかな自己表現の手段を与えることができる。別の例として、『タークエイジオブキャメロット Dark Ages of Camelot』では人々は染料を買って自分が身につける衣服や鎧の色を変えることができる ― これはゲーム的な効果は無く、ゲーム内通貨を払う必要のあるものだが、人々に自己表現の手段を与えている。そして人々はこの染料を使う ― 自分の武器や鎧を実際に強化できるだろう金を、バーチャルファッションのようなどうでもよいもののために喜んで消費するのだ。


マゾヒズム  Masochism


 マークによる構成要素であるこれは言葉の選択が変だが、しかしたぶん完全に不適切というわけでもない〔マーク・ルブランは別の版では「服従 Submission」という語を使っている〕。私は前に、我々は人生が苦闘であることを望まないと言ったが ― ゲームにはそうあることを望む。マークが言っているのは、自分自身をゲームの構造に服従させることによって得られる快がある、ということだ。

 ゲームの構造への服従は、我々がプレイする際に交わす基本的な取引だ。『モノポリー』の金を獲得できるか否かを我々は〈本当には〉気にしないが、プレイする際には、我々はそれを気にしているように行動することで合意している。我々は今夜『エバークエスト』でレベルアップするか否かを本当には気にしないが、しかし我々は今夜のレベルアップのために最大限のことを行う。我々はヤンキースがジャイアンツに勝つかどうか本当には気にしない……いや、オーケー、気にするかもね。

 実のところ、この取引を行わない、ゲームの構造に自らを服従させない誰かと一緒に遊ぶのは酷く苛立たしい。ただ立ち尽くしてチャットで無愛想なコメントをしてくるだけの人間と『クエイク』をプレイしても何も楽しくない。あなたの妹を『ストラテゴ Stratego』で制圧しても、妹が単に自分の齣をてきとうに動かしているだけだったら、何も楽しくない。

 そしてチートしてくる奴と遊ぶのもマジで苛つく ― ゲームの構造を破りながらゲームの目標は追い求める奴のことだ。

 構造を見つけだし、そしてどうすれば打ち勝てるのか見つけだし、あるいは相手に打ち勝つためまたはゲーム世界内で自分の目標を手に入れるためにそれを操作する、これが要するにゲームプレイだ。

ARTISTS…

アーティスト…

 アーティスト ― そしてゲームデザイナーはゲームの媒体《メディウム》で作品を製作するアーティストだ ― アーティストは模倣から始める。コミックブックのイラストレーターになりたければ、スパイダーマンやスーパーマンを、あるいは 〔漫画家の〕ヘルナンデス兄弟 Hernandez brothers のように描こうとすることから始める。ロックミュージシャンになりたければ、崇拝するギタリストのスタイリングを真似ることから始める。作家なら二次創作を書くか、あるいは敬愛する作家のスタイルを模倣しようとするところから始める。そしてゲームデザイナーなら、あなたが楽しんだゲームのような作品をデザインしようとするところから始める。

 そしてその後、テクニックの熟達に進む。マスターした複数のテクニックを使い、それらを斬新な形で組み合わせようと試みる ― RPGのこの要素を、リアルタイムストラテジーゲームに借用しようかとか、ファンタジーの感覚をどれくらいうまく下支えできるか考えたりとか、あるいは斬新な設定をある確立されたゲーム形式に持ち込んだりとか。

 そして究極的には、アーティストは志向性〔intentionality〕の感覚をもって製作を行う。メディウムを完全に理解し、既存の作品を模倣したり漸進的に改良したりすることは狙わず ― 欲する効果をプロジェクトのはじまりから心に抱き、何のテクニックがそれらの効果をもたらすか理解し、その各々のあらゆる側面が欲した目標を下支えしているような作品をものすことを狙うのだ。

 この分野では ― どの分野でも ― 志向性をもって製作を行い結果として磨き上げられたイノベーティブなものを創りあげられるこの最終ステージに辿り着いた匠はごく少数しかいない。

WHAT MAKES IT A GAME?

何がそれをゲームにするのか?

 ゲームをデザインする際は ― あるいはゲームをプレイしその魅力を理解しようとする際は ― 私がここで議論したツールから始めれば、そう酷いことにはならないだろう ― 私が提供したゲームの定義と、マーク・ルブランによるゲームの快の分類法だ。

 自分自身に聞こう。プレイヤーはそのゲームとどのようにインタラクトするのか? そのインタラクションは意味あるものか? インタラクションのプロセスはそれ自体が楽しいものか ― あるいは退屈なものか、そしてもし退屈なのだったら、どのようにして退屈さを減らせるか?

 そのゲームはどんな〔複数の〕目標を扱えるのか? 勝利条件は単一か、それともいくつかあるのか? それともプレイヤーが選択可能な目標を提供するものか? そうだとして、どのようなプレイスタイルを扱えるようにしたいのか、従ってどのような目標を認めるべきなのか?

 ゲームを司るアルゴリズムはデザイナーがそのゲームでやろうとしていることを支えているか? ゲーム世界、そしてそれが下支えしようとしているファンタジーの文脈のなかで人が「しっくりくる」と感じられるようになっているか? 難しい選択をプレイヤーに課せられるほど充分に複雑で、同時にゲームの振る舞いにプレイヤーが煙に巻かれないよう充分にシンプルになっているか?

 苦闘はどこにあるのか? プレイヤーが乗り越えるべき障害は何か? 別の問題や副次的な問題はどのようにそのゲームを豊かなものにしているか? プレイヤーにとってきつすぎたり簡単すぎたりしないか?

 そのゲームが創りだしている意味は何か? その意味はプレイヤーに自分がやってることを大事に思わせるものになっているか? ゲーム上のオブジェクトと現実世界の間にどのような接点が存在するか? プレイヤーはプレイする中でどのような洞察を得るのか?

 それはどのような快を供するのか?

 そしてそのゲームはどのような快を供するのか?

 ビジュアルはゲームのアプローチやテーマとぴったり接合しているか? もっと美しいものにできるか? この声は不快な演技になっていないだろうか? ダイアログのために本職のライターを雇うべきか? 音楽は素晴らしいものか、それともプレイヤー達が十五分後に後ろ足を踏みだすようなものか? 操作はしっくりくるものか、それともどのボタンが何をするものだったかすぐ忘れてしまうようなものか、あるいは人を手根管症候群にするようなものか?

 ゲームの背景は、トールキンを初めて読んだ時のような胸の高鳴りを与えてくれる非凡なヒロイックファンタジーらしく聞こえるか、それとも時代遅れのステレオタイプなオークとかエルフとかが出てくるやつのように聞こえるか? 都市近郊の日常世界にプレイヤーが没入し、その親しみやすさによりプレイヤーがキャラクター達のことを気に掛けることができるようになっているのか、それとも単にだるいだけのものにしかなっていないのか? プレイヤーはバナナ共和国の独裁者になることに熱中しスペイン語のアクセントで喋り出しているか、それとも何かアブストラクトな勢力をプレイしているように感じられゲームと真に接続できなくなっているか? そのゲームはどのような幻想を供するのか、そしてシステムはプレイヤーにその幻想を感じさせているか?

 ゲームにストーリーがあるのなら、それはエモーショナルな満足を得られるものか? ゲームにはドラマティックな流れが存在するのか、それとも勝利に辿り着く最後の数回の征服は逃げ続ける相手をすり潰すだるいエンドゲームになっているのか? プレイヤーの心臓が速鳴りするのはどんなときで、それは何故か ― もしその回答が「一切無い」なら、座っている椅子からプレイヤーの身を乗り出させるために何をしなければならないのか?

 そのゲームは挑戦になっているか、それとも簡単すぎるのか、あるいはほとんどの人間にとって難しすぎるか?

 そのゲームはプレイヤー達の間にコネクションを創っているか、それともプレイヤーは他のプレイヤーとコミュニケートしたりそのゲームについて喋ったりする必要を全く感じていないか? ゲームのなかで仲間意識や経験の共有やコミュニティの感覚を創りだし、維持するにはどうすればいいか? ゲームのまわりに構造が存在して ― リチャード・ガーフィールド Richard Garfield によるメタゲームの定義だ ― いま参加しているという強い感覚が築かれているか? あなたのゲームの社交的な用法はどのようなものか?

 そのゲームのなかでプレイヤーは如何にして諸々を見つけだすのか? 時間とともにプレイヤーが出くわす新しいものはどのようなものか? ゲームの進行とともに充分な新規性と変化に富んでいるという感覚を得られるか? それとも時間が経つと相変わらずで新鮮味がないものになってしまうか? どうすればゲームを探検することをもっと面白いものにできるか?

 そのゲームが提供する自己表現の機会は何か? どうすればプレイヤーに冒涜的だったり反社会的だったりすることを推奨することなくこのような機会を提供できるだろう?

 ゲームの構造を受け入れるのは楽しく感じるだろうか、それともあなたのテスター達は何かの制限をただ〈憎んでいる〉だろうか? そのゲームについて何が恣意的に感じさせているだろうか、そしてその側面をもっと首尾一貫した全体の一部でありゲームの美意識と世界観から自然に喚起されるものであるように感じさせるにはどうすればよいだろうか?「畜生、これをやれたなら…」そしてまさしくそれをプレイヤーにさせる方法はあるだろうか?

FINAL QUOTE

最後の引用句

 ユングから引いたこの最後の引用句をあなたに残しておきたい。

「良いゲームの発明は、他の人の多くがいかに軽蔑しようと、人々が実行できるもっとも難しい仕事のひとつなのだ。」〔作家ローレンス・ヴァン・デル・ポスト Laurens van der Post の著による深層心理学者カール・ユング Carl Jung の評伝『ユングとわれらの時代の物語 Jung and the Story of Our Time』(1976) において、ユングから聞いた言葉として、「The Man and the Place」の章に登場する〕

 外からは、ゲームデザインは簡単に見える。外からは、〔ゲームにおける〕書き物は簡単に見える。そしてハリウッドにいるだれもがその脚本を馬鹿にしようとしている。しかし実際のところ、これはクリエイティブの諸分野のうち最も難しいもののひとつなのだ。これはまさしく、人々があらゆる可能な方法、我々の予期せぬ方法で用いようとする構造を、我々が創ろうとしているためだ。ゲームは他のどれとも異なるアートフォームで、というのは、そのプロダクトは受動的に受け取られるものではなく、最後に描いた点や読点の一つ一つによって規定されるような何かではないからだ。むしろゲームは、それがプレイされる限りにおいて、開発者とプレイヤーのコラボレーションであり、相互の発見の旅であり、ゲームの形はアーティストが創るものだがゲームの体験はプレイヤーが創るものだという意味で、民主的なアートフォームだ。したがってゲームデザインは、あなたのゲームでプレイヤーが得るだろう種類の体験を先験的に想像しようとする、そしてその想像の行為を通じて、プレイヤーに感じて欲しい種類の体験へ向かうほうを指し示す構造を創る、クリエイティブな試みなのだ。

 実のところ、ゲームデザインは単に難しいのではない。それは不可能だ。つまり、プロジェクトの始まりの時点でゲームを仕様付け、プレイアブルなプロトタイプができた瞬間からそれが美しく、素晴らしく、最上級に機能するようにするのは、不可能か、事実上不可能だ、ということだ。ここではあまりに多くのことが起こっていて、失敗への道があまりにも多くある。ゲームデザインは結局のところ、改善の反復であり、テストを通じた継続的な調整であり、これは……予算とスケジュールと経営が構わなければ……実際に美しく素晴らしく最上級に機能する磨き抜かれたプロダクトを手にするまで続く。

 しかしそのような美しく素晴らしく最上級なゲームをあなたが手にできる可能性〔底本ではchangesとなっているが、文脈からchancesの誤記と判断した〕は、意図をもって始めることにより……つまり、あなたがプレイヤーにさせたい体験を考え、何がゲームを〈作る〉のか理解し、人々がゲームに見出す快を理解して始めることで、大いに高くなることだろう。

原著者について

グレッグ・コスティキャン Greg Costikyan はゲームデザイナー。

1970年代後半から80年代中盤を最盛期とするSF/ファンタジーゲームのジャンルにおいて、最も著名なデザイナーの一人。ボードゲームの代表作に『シーボイガンを喰った怪獣 The Creature That Ate Sheboygan (1979)』『バーバリアン・キングス Barbarian Kings (1980)』『バグ・アイド・モンスター  Bug-Eyed Monsters (1983)』『パクス・ブリタニカ Pax Britannica (1985)』など。

卓上RPGのデザイナーとしても著名で、代表作に『パラノイア Paranoia (1984) [※Dan Gelber, Eric Goldbergとの共著]』『トゥーン Toon (1984)』『スターウォーズRPG Star Wars RPG (1987)』などがある。

ゲームに関する論説でも知られており、この分野でも単著『Uncertainty in Games (2015)』を出版している。また、この分野での文章としてとりわけ有名なものに、「I Have No Design & I Must Design」(1994. 『Interactive Fantasy』誌 2号 pp.22-38)があり〔馬場秀和他による翻訳が公開されている。http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~babahide/bblibrary/library/design_j.html本稿はこの1994年の論説の改訂版となっている。

翻訳について

〈〉は原文では斜体。原文では作品名も斜体で表現されているが、これは訳文では『』で示している。〔〕内は訳注または訳者による補足。《》は訳者によるルビ振り。


ver.1 / 20231014

ver1.1 / 20231014 (誤記修正)


翻訳:沢田大樹 tsw@yahoo.co.jp

この翻訳は原著者の許可のもと公開しているものです。

原文は冒頭の著作権表記のとおり、原著者グレッグ・コスティキャン Greg Costikyan とタンペレ大学出版局 Tampere University Pressの著作物です。この翻訳についても当然に、原文の著作権者が権利を保有しており、再配布等については原著者の許可が必要になります。ただし、原著者の許可が得られているのであれば、再配布等にあたって翻訳者(や翻訳文の掲載者)の許可は不要です。