ギャンブルゲームの変遷

『トランプゲームの源流 第2ギャンブルゲームの変遷

黒宮 公彦 著

合同会社ニューゲームズオーダー刊


※このページの下部から本書の一部を試し読みいただけます。また、誤記訂正があった場合はこのページの末尾に追加されます

本書は第1巻に引き続きトランプゲームの初期の歴史について明らかにすることを目的とし、主に 15 世紀から 17 世紀前半にかけてのトランプゲームがどのようなルールで行われたものなのか考察する。第1巻は「トリックテイキングゲーム発達史」と題し、トランプゲームの中でもトリックテイキングゲームと呼ばれるものの歴史、とりわけ切り札とビッドの歴史を概観した。この第2巻では第1巻で触れられなかったゲーム群を取り上げることにしたい。第1巻には「トリックテイキングゲーム発達史 」という副題を付したので、それに合わせてやむを得ずこの第2巻は副題を「ギャンブルゲームの変遷」としたが、実際には本書もトリックテイキングゲームの話題が半ばを占める。つまりギャンブルゲームばかりを取り上げるわけではなく、第1巻と違って扱うトランプゲームのジャンルは特に意識していない。本書ではおおむね次の条件を満たしているゲームを取り上げる。

『おそらく 15 世紀に端を発していると考えられるもの、またはそれと深く関係しているもの』

『トランプゲームの歴史を考える上で重要だと思われるもの』

(「はじめに」より抜粋)


* * *


黒宮 公彦(くろみや きみひこ): 1971 年三重県生まれ。京都大学文学部卒。学生時代に世界各地の伝統的なカードゲームに興味を持つようになり、以来ルールについて調べている。The International Playing-Card Society会員。著書に『クク大全』(合同会社ニューゲームズオーダー)がある。

冊子版 〔A5判 ソフトカバー 316頁(+表紙4頁)単色刷 〕発売中 (2023年6月発売)

 ISBN978-4-908124-70-9 C3076 価格3850円(本体3500円)

電子書籍版 発売中 (2023年7月2日発売)

 ISBN978-4-908124-71-6 C3876 価格2200円(本体2000円)

目次

はじめに 2目次 3序章 賭博について 6◇その他の注意事項 14◇お詫びと訂正 15第1章 一か八か 19◇ボヌトー(スリーカードモンティ) 20◇バセッタ 27◇ビリビッソ 36◇ファラオン《フランス、1708年》 39◇ランスクネ・1《フランス、17世紀末頃から18世紀初頭》 44◇デュプ(フロレンティーニ) 54◇ランスクネ・2《フランス、19世紀中頃》 65◇コンダナード 73第2章 山羊と豚 77◇ポッホ・1(ポッヘン) 80◇ポック 83◇ポッホ・2 88◇ボーゲルシュピール《ドイツ、18世紀前半》 97◇グリック《フランス、16世紀》 102◇グリーク《イギリス、17世紀後半》 106◇ボック《南ドイツ・スイス・アルザスを含むライン川上流域、16世紀》 112第3章 流れを辿る 120◇フルースシュピール《北ドイツ、1856年》 126◇フリュースレン《スイス・シュヴィーツ州ムオタタル、1978年》 128◇ベル、フリュ、トランタン 132◇フルッソ《イタリアおよびフランス、16世紀前半》 138◇31・その1 142◇31・その2(スキャット、ライド・ザ・バス) 144◇ワン・アンド・サーティ 151◇ボン・エース 153◇トリドゥヌス《スペイン、1549年》 155◇コマース 159◇コメルス 160コラム〜手役についての覚え書き 168第4章 知識人の嗜み 169◇フンダートシュピール《オーストリアおよび南ドイツ、18世紀末から19世紀前半》 174◇トラポラ《ヴェネツィア共和国、16世紀前半》 182◇ブルカ《ボヘミア地方、17世紀後半から19世紀》 201◇シュパーディ《シレジア地方、20世紀後半》 206◇ストフカハラ(ブルチコ) 214コラム〜タロットの得点計算 219第5章 もう一つの源泉 222◇トリオンフ《フランス、16世紀後半から18世紀》 237◇トリオンフ(基本ルール) 239◇トリオンフ(チーム戦) 247◇トリオンフ(個人戦) 249◇アス・キ・ピユ 250◇トゥールーズのトリオンフ 251◇パリのトリオンフ 252◇フレンチ・ラフ 252◇トリオンフ(2人戦) 254◇トリウンフォ《イタリアおよびフランス、15世紀後半から16世紀》 264◇ラフ・アンド・トランプ《イギリス、17世紀》 270◇トランプ《イギリス、17世紀》 272◇ラフ・アンド・オナー《イギリス、17世紀》 273◇ホイスト《イギリス、17世紀》 274第6章 ビッド再考 277◇オーヴェルニュのオム《フランス、17世紀》 285◇オム(ベート)《フランス、17世紀後半から18世紀》 289◇ビースト・1《イギリス、17世紀後半》 297◇ビースト・2《イギリス、1674年》 301◇ベスティア 303参考文献一覧 309奥付 316

試し読み

序章 賭博について


 「はじめに」でも述べたように、本書は第1巻の続編であるので第1巻の内容を前提としている。第1巻で述べたことは本書では繰り返さないので、適宜第1巻を読み返しつつ本書を読み進めて頂きたい。


 ただし第1巻では賭博についてほとんど触れなかったので、必要な予備知識をここで解説しておこう。加えて、私が第1巻で述べたことの中に大きな誤りを犯しているものがあると判明したので、ここで訂正させて頂く。


***

 

 第1巻第1章で述べたようにヨハンネス修道士なる人物がトランプに関する記述を残した。それが本当に1377年に書かれたのかどうかは分からないが、最初期の記述であることに間違いはない。そこから当時すでに金銭を賭けてトランプをしていた人がいたことが窺われる(同書p.37参照)。だからこそ禁止令がしばしば出されたのだ。


 ところで金銭を賭けて遊戯を行うことに対してなぜ禁止令が出されるのだろうか。人間、労せずして金銭を手にするようになると真面目に働くのが馬鹿らしくなって働かなくなるから道徳上よろしくない、人は労働をするのが神の教えに従った生き方だ、ということももちろんあるだろう。しかしそれだけではない。神の教えに従った生き方をするかどうかは宗教や道徳の範疇に属するが、現実に人々がどのような生活を営むかは政治の問題であり、法律もまた政治の範疇に含まれる。賭博が宗教によって禁じられるのみならずしばしば法律でも禁止されるものであるからには、賭博を政治的な観点からも眺めてみる必要があろう。無論国民の多くが真面目に働くのは馬鹿らしいと考えるようになってしまうと道徳的に問題があるのみならず国家としても看過し得ない事態であるから、政治的に考えても賭博を禁止するのは当然のことかもしれない。しかし賭博を解禁したとしても国民が皆働かなくなるわけではないだろう。となると我々は賭博がなぜ禁止されるのかについてもう少し現実的かつ複眼的に捉えるべきだ。現実とは我々が思うよりも複雑なもので、さらに言うならある面で残酷なものでもあることを理解しておく必要があるのだと思われる。


 金銭を賭けて遊戯をし、その上で勝つと当然金銭が得られるわけだが、それと同時に昂揚感や刺激も得られる。この「刺激」が曲者なのだ。人間は次第に刺激に慣れていくようにできている生き物なので、時間とともに次第に刺激を強くしていかなければ以前と同程度の昂揚感や興奮を得ることができなくなってしまうのである。そして賭博において刺激を強くすることは賭ける金額を大きくすることを意味する。要するに金銭を賭けて遊戯をするようになると、刺激を求めて次第に賭ける額が大きくなっていってしまう人が一定の割合で存在するものなのだ。こうなってしまうとギャンブル依存症と言ってよい。ギャンブルとは長く続ければ確実に大金を失うようにできているものであるため、中には身を持ち崩したり、自責の念や自己嫌悪感から精神的に病んでしまったりする人まで出てきてしまう。あるいは全財産に匹敵するような大金を賭けるような人さえ現れることもあり得る。そうした賭けに負けた人は全財産を失うわけだから、必然的に自殺するか対戦相手を殺すかというところまで追い詰められることになる。たかが賭博のために人生を棒に振る人が出てくるとなると行政としても賭博を禁止せざるを得ないということなのだろう。


 さらにこれとは別の問題として、大金を賭けた遊戯が行われる場には必ず不正、すなわちイカサマを働く者が現れ、それが揉め事の原因となるということもある。トランプを用いた賭博の歴史とトランプ賭博にまつわるイカサマの歴史はトランプそれ自体の歴史とほぼ同じだけの長さがあると考えてよいものと思われる。次章でも触れることになるが、トランプゲームに絡んでイカサマが行われたことをほのめかす証言はルールの記述よりもはるかに古くから存在する。第1巻第4章で触れたビベスの『対話集』(1539年)の「札もしくは紙片の遊戯」でさえも──ラテン語会話の学習を目的として書かれた書物であるにも関わらず──イカサマの話題が登場するのである。


 もう一つ、こちらは宗教的な問題になるが、重要な点を指摘しておこう。第1巻第1章で述べたようにシエナの聖ベルナルディーノは1423年にボローニャで行った有名な説教の中で、トランプやサイコロを用いた「偶然による遊戯」は悪魔の発明だと激しく非難した。単に金銭を賭けて遊戯をすることを非難しているわけではないことに注意しよう。歴史的に見ればチェスも金銭を賭けて遊ばれるのがふつうだったが偶然の遊戯として非難されることはなかった。つまりトランプやサイコロのような偶然の遊戯には金銭を賭けることとはまた別の非難されるべき理由があったのである。サイコロを振ると1から6までの目のうちのいずれかが出る。どの目が出るかは同様に確からしい。それはつまり、どの目が出ることも同じくらいあり得ることであって、サイコロを振る前にどの目が出るかは誰にも予測できないことを意味する。誰にも予測できない……? それは神が全知全能であることと矛盾しはしまいか。どの目が出るか、神ならばサイコロを振る前から分かるのか。あるいは、人間の目にはサイコロは1から6までの目がランダムに出るように見えるが、どの目が出るかは実はすべて神によってあらかじめ決められていることなのか。そこまで突き詰めて考えていくと「神はどの目が出るかあらかじめ知ることができるのか」という疑問を抱くことそれ自体が、神の全能性を疑い、神を試す行為であるようにも思われてくる。こう考えると偶然による遊戯は、金銭を賭けるかどうかとは無関係に、その存在自体が全能の神に対する冒涜だと聖職者が捉えたとしても不思議ではない。以上をまとめると、少なくともキリスト教社会においては、金銭を賭けてトランプやサイコロで遊ぶことは金銭を賭けてチェスで遊ぶことよりも罪が深いのであり、その理由は、金銭を賭けることとは別の問題として、偶然の遊戯は存在それ自体が神(とりわけ一神教における神)を冒涜する恐れのある罪深いものだからである。



〔略〕

第1章 一か八か


 ゲーム史研究家ティエリ・ドゥポリス(Thierry Depaulis)によると、フランスでは14世紀から16世紀にかけて国王が罪人の一部に恩赦を施す慣習があったそうだ。1408年には若い二人の男に恩赦が施された記録が残されている。二人はどのような罪を犯したのか。簡単に言うと詐欺、しかもトランプを使った詐欺を働いたようだ。元の文書はフランス人のドゥポリスでさえ「少々錯綜している」とコメントしているくらいのものなのだが(そもそも1408年当時のフランス語は現代フランス語と大きく異なっているため理解しづらい面もあることだろう)、それでもドゥポリスの解釈に従ってもう少し具体的に状況を説明すると、ざっと以下のような事件だったらしい。


 二人の若いならず者がとある善良な商人を居酒屋に連れて行った。そこで二人は商人をカード遊戯に誘い込む。それは「どのカードが出るかを当てる」という類いのゲームだった。初めのうちは何も賭けずにゲームをした。その後、驚くことに二人は商人に、背面に印をつけたカードが1枚あることを告げてそれを見せる。ところが実際には背面に印をつけたカードはもう1枚あったのだが、当然二人はそのことは商人には教えない。その後真剣勝負、すなわち金銭を賭けた勝負となり、商人は印をつけたカードを引くのだが、それは商人が予期したカードでないことが判明する。このため商人は22エキュを失った(エキュは当時の通貨)。

 この事件に関する記述について興味深い点が二つある。一つ目は、これはゲームのルールを記述したものとはとても呼べないが、それでもどのようなゲームだったかある程度は描写されていると言えるということだ。1408年とのことだから、この種のものとしてはトランプゲームについての現在知られている最古の記録である。


 二つ目は、ゲームについてある程度描写されているにも関わらずゲーム名が登場しないことだ。ゲームを描写した最古の記録にゲーム名が現れないのは残念なことだが、文書の性格上やむを得ないことかもしれない。二人の若者がどのような詐欺を働いたかが問題となっているのであって、どのようなゲームを行ったかなど取るに足らないことだからだ。あるいはことによると当時の人にとってゲーム名などどうでもよいことだったのかもしれない。ゲームに名前があるというのは、現代の我々にとっては当たり前の話だが、考えてみれば不思議なことだ。「遊ぼう」「ゲームをしよう」あるいは「トランプで遊ぼう」と言ってそれでどのようなゲームをするのか聞き手に伝わるのであればゲーム名など不要である。様々なトランプゲームが生み出され、それらを互いに区別しなければならなくなったとき初めてゲーム名が必要となるのだ。1408年当時どのくらいの種類のトランプゲームが存在したのか、あるいはゲームを名前で呼ぶ習慣がどの程度一般化していたのか私にはまったく分からないが、15世紀初頭はまだゲーム名を必要としない時代だったのかもしれない。


 ちなみにこの文書には使用されたカードの表面にはバラが描かれていたという記述もあり、当時どのようなカードが用いられていたか知ることのできる貴重な証言である。15世紀初頭であればスートを表すマークとしてバラが用いられたトランプがあったとしても何ら不思議なことではないと私は思う。しかしドゥポリスはスートを表すマークだった可能性も単なるカードの装飾だった可能性もあるとして慎重に断言を避けている。


 さて、二人のならず者が商人を騙したトランプゲームとは一体どのようなものだったのだろうか。ドゥポリスは「コンダナード(Condemnade)」に非常に近いゲームのようだと述べた上で「ボヌトー(Bonneteau)」を想起させるとも付け加えている。

〔略〕

第2章 山羊と豚


 本書第1巻第3章でカーネフェルを取り上げたが、その際このゲームがしばしば「ルールが判明している最古のトランプゲーム」と言われることに対して否定的なことを述べた(p.94)。そして次のように付け加えた。「ルールがある程度推測できるというだけでよければカーネフェルと同じくらい古いカードゲームはいくつか存在するし、文献初出だけを考えても1446年を遡るカードゲームは複数確認されている」。本章で取り上げるのはそうしたゲームのうちの一つ、ポッホ(Poch)である。


 ポッホは「ポッヘン(Pochen)」などとも呼ばれ、古くは「ボック(Bock、Bog)」、「ボッケン(Bocken)」、「ボーゲル(Bogel)」などとも呼ばれた。ちなみにこれらはすべてドイツ語である。ポッホに限らずドイツではゲームの名称に -en、-el、-liなどの語尾を加えて呼ぶことはふつうであり、これにより名称に多種多様なヴァリアントが生じる。また標準的なドイツ語では濁る子音(有声音)が南ドイツでは清音(無声音)で発音されることがよくある。さらにドイツ語のchの発音は地方差・個人差が大きく、特に南ドイツではkに近い音で発音されることもある。ここから私はPochとBockは同一の語だと考えているのだがよく分からない。いずれにせよ、Pochを本書では「ポッホ」と表記するが「ポック」と発音してもそれほど大きな間違いではないのではないかと思う。


 なおPochやBockの語源は不明である。Bockはドイツ語で「牡山羊」の意味があるが、このゲームの名前の語源とはおそらく無関係だ。また「ポッヘン(pochen)」は動詞として「ノックする」という意味があるが、もともとはBockと呼ばれていたのだからノックとは関係ないと思われる。ただしゲームの名前がBockからPochに変わった結果次第にpochenと結びつけて考えられるようになっていき、最終的にpochenはこのゲームでは「ベットをする」または「ベットのためにチップを置く」といった意味合いを含む用語となったようだ。ノックするのとチップを置くのとではずいぶんと異なっているが、日本語で「博奕を打つ」と言うときの「打つ」と似たようなものだと考えれば納得できるかもしれない。なおPochにせよBockにせよもともと (1) ゲームの名前であると同時に、(2) 複数枚の同位札(特に同位札3枚)を組み合せた手役という意味も持っていた。そして後になってPochにはさらに (3) ベット(をすること)という意味まで加わったのだから少々ややこしい。本章を読み進める際にはこの点にご注意いただきたい。


 ポッホの特徴の一つとして「ポッホブレット(Pochbrett)」と呼ばれる専用の盤が用いられることが挙げられる。これは現在でもドイツで市販されており、今なお遊び継がれているゲームであることが確認できる。ただしこのゲームの誕生当初からポッホブレットが使用されていたかどうかは不明である。それでも古い時代のポッホのルールを知るためにポッホブレットが有力な手掛かりを与えてくれることは事実であり、文献に加えてポッホブレットを資料として用いた調査も可能である点が他のゲームにはないポッホの大きな特徴と言える。

 

 ポッホについてはティエリ・ドゥポリスが1990年から翌年にかけてThe Playing-Card誌上に三回に亘って発表した「ポッホシュピール─15世紀の『国際的な』カードゲーム」という論文がよくまとまっており、本章も基本的にこれに依拠して論を進めることにする。しかしポッホに馴染みのない読者にとっては「ポッホはポッホブレットという盤を用いたゲームだ」と言われても何のことか分からないだろうから、ポッホの歴史について概観する前にここで現代のポッホの遊び方について見ておくことにしよう。

〔略〕

第3章 流れを辿る


 男二人が金銭を賭けてゲームをしていた。先に三勝した方が賭け金の全額を獲得するという約束だった。ところが一人が二勝、もう一人が一勝したところでやむを得ない事情により勝負を中止しなければならなくなった。この場合賭け金をどう分けるべきなのだろうか。とある人物がパスカルにこんな質問をした。パスカルはうまく答えられなかったのでフェルマーに手紙を書いた。パスカルとフェルマーによる手紙のやり取りはしばらく続き、これにより確率論が誕生したのである……、と、このようなエピソードが多くの本に書かれている。ところが最初にパスカルに質問をした人物について詳しく述べた文章を私は目にした記憶がない。ひどいものだと「賭博師」と紹介されている。パスカルに質問をした人物は本名をアントワーヌ・ゴンボー (Antoine Gombaud) と言う。この人物はある時から自らを「メレの騎士(Le Chevalier de Méré)」と名乗るようになったためメレと呼ばれることが多い。いずれにせよ騎士であって賭博師ではない(しかもパスカルと親交があるような人だったのだ)。メレと聞いてピンと来る読者もおられることだろう。そう、本書第1巻第7章で見たように、フランスで初めてオンブルの詳細なルールを書き残した人物である。


 ことほどさように確率論はゲームと深く結びついて発展してきた。いや、それはおそらく違う。もし金銭を賭けずにゲームをしていたならば確率論が必要になるほど勝負にこだわるプレーヤーが現れるとは信じ難い。上記のエピソードにしてもゲームそれ自体ではなく賭けた金をどう分けるべきかが問題となっていた。したがって確率論は「賭博」と深く結びついて発展してきた、と言うべきだろう。そして賭博に興味を持つ人、とりわけ単なるギャンブル好きに留まらず確率について考察したり著作を残したりするような人物は得てして、単純なダイスゲームのみならず、トランプゲーム全般あるいはチェスやバックギャモンにも興味を示すものだ。


 残念ながら私は確率論についてはよく知らないのだが、一般にはパスカルとフェルマーの文通が確率論の誕生だと言われるのだと理解している。しかしパスカルやフェルマーの先駆者としてカルダーノの名もしばしば挙げられるように思う。

 

 ジェローラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano、1501-1576、「ジローラモ(Girolamo)」とも呼ばれる)はミラノ公国(当時)で生まれたルネサンス期の医師であり、科学者・数学者でもあった。三次方程式の解法を巡るタルタリアとの争いは有名である。このカルダーノが著した『サイコロの遊びについての本(Liber de Ludo Aleae)』はパスカルやフェルマーに先立つ確率論の出発点と見なすべき記念碑的著作として有名であるが、トランプゲーム史の観点から見ても非常に重要な文献である。17世紀後半以降トランプゲームのルール集が多数出版されるようになるが、その先駆的な著作だと評価されることもある。そこでこの『サイコロの遊びについての本』がいつ書かれたのかが問題となるのだが、これには複雑な事情があるので詳細は次章に譲る。ここではとりあえず16世紀半ば頃に書かれたものだと理解しておいてほしい。


 『サイコロの遊びについての本』は当時遊ばれていた数々のトランプゲームの名前を挙げている貴重な文献ではあるが、ルールに言及しているゲームは残念ながらわずかだ。その中の一つに「フルクスス(Fluxus)」がある。もっとも第25節に簡単な紹介が見出せるというだけのことで、ルール記述と呼ぶにはほど遠いのだが。なお『サイコロの遊びについての本』はラテン語で書かれているのでこのゲームもラテン語で「フルクスス」と呼ばれているが、このゲームはフランスでは「フリュ(Flux)」と呼ばれた。本書でも何度も述べているとおり、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』の「ガルガンチュワの遊戯」には当時遊ばれていたゲームの名称が列挙されているが、そのリストの劈頭を飾るのがフリュである。


 このゲームはイタリアでは「フルッソ(Flusso)」、ドイツでは「フルース(Fluß)」「フリュッセン(Flüssen)」などと呼ばれた。「フルクスス」や「フリュ」も含め、これらはいずれも「流れ」を意味する。そこでこの「流れ」と呼ばれたゲームの歴史を辿ってみることにしよう。なおこのゲームはイタリアで生まれたと考えられるので、以下では主に「フルッソ」と呼ぶことにする。


 フルッソはイギリスでは「フラッシュ(Flush)」と呼ばれたが、ポーカーのフラッシュは元を辿ればおそらくフルッソに行き着くのだと考えられる。つまりフルッソの歴史を辿ることはある意味でポーカーの歴史を辿ることでもある。


 フルッソに関する研究はスイスのトランプ研究家ペーター・コップ(Peter F. Kopp)が1978年に発表した論文から始まるのではないかと思う。これを受けてフランスのゲーム史研究家ティエリ・ドゥポリスが1982年に論文を発表した。コップは1986年の論文の中でもフルッソに触れている。本章がフルッソについて述べることは主にこれら三編の論文に基づいている。


〔略〕

第4章 知識人の嗜み


作者も出版年も書かれていないが、私の当て推量では16世紀後半に出版されたのではないかと想像する、なぞなぞを集めた本がある。本文はわずか6ページで本というよりは冊子なのだが。出版された場所だけはTrevigiと明記されている。これはイタリアのヴェネト州、ヴェネツィアにほど近い街トレヴィーゾ(Treviso)のことだと私は理解している。この冊子の中に次のようななぞなぞがある。


Qual’è quel Paese, che il Rè porta mazza, e suo Figliuol l’ammazza? il giuoco di trapola.(王様が棍棒を持っていて、その息子が王様を殺す国はどこ? トラポラのゲーム)

 

 この章では「トラッポラ(Trappola)」を取り上げる。はたしてこのゲームを「トラッポラ」と呼ぶのが適切なことであるのか迷うところではあるが、現在ヨーロッパの研究者が慣習的にこう呼んでいるのは事実である。とはいえ初期の段階(15世紀末から16世紀前半)ではこのゲームが「トラポラ(Trapola)」という表記で文献に登場することは記憶に留めておくべきであろう。また16世紀後半であっても「トラポラ」「トラッポラ」のいずれの名称も用いられた。上記のなぞなぞ集も、いつ出版されたものなのかは分からないが、trapolaという綴りになっていることが確認できる。


 このゲームに関する最重要文献は前章でも触れたジェローラモ・カルダーノ(Gerolamo Cardano)の『サイコロの遊びについての本(Liber de Ludo Aleae)』であり、その第23節に「トラポラ」(ここでもこのゲームはトラポラと呼ばれている)の遊び方が述べられている。前章で述べたとおり『サイコロの遊びについての本』は当時遊ばれていた数々のトランプゲームの名前を列挙しているが、ルールを記載しているゲームはわずかである。トラッポラはその一つであり、しかもフルクスス(フルッソ)と比べても遙かに詳細に記述されている。


 ではこの文献が伝えるトラッポラとはいつ、どこで遊ばれたものなのか。換言するとこの文献はトラッポラのいつ頃の姿を伝えているのか。この問題が案外厄介なのだ。『サイコロの遊びについての本』が出版されたのは1663年で17世紀も半ばを過ぎている。けれどもカルダーノは1576年に没しており1663年にこの文章を執筆することはあり得ない。つまり死後80年以上も経ってから出版されたということなのであって、17世紀半ば頃のトラッポラについて述べた資料ではないことに注意しなければならない。実際には『サイコロの遊びについての本』は1564年頃書かれたと考えられている。ではこの書は1564年頃のトラッポラについて記述しているのかというと、それも違う。


 カルダーノは1501年にミラノ公国のパヴィアに生まれた。もっとも父親はミラノ公国の首都ミラノの人で、四歳の時にミラノに移り住んだ。前章でも触れたが、当時のミラノ公国はフランスに併合されフランス国王がミラノ公を兼ねる有様だった。「ローディの和」崩壊後の、イタリア半島全体が政情不安定だった時代である。ミラノでは疫病もたびたび流行した。そのような中カルダーノ自身も不幸な少年時代を送ったようである。その上1517年にドイツで始まった宗教改革がローマに影響を及ぼさないはずはなく、半島の混乱に拍車が掛かった。カルダーノは当初パヴィア大学で学んだが、戦争と疫病を避けるべく1524年にヴェネツィア共和国のパドヴァ大学に移った。その後1526年から6年ほどパドヴァ近郊の町サッコで暮らした。ミラノに戻ることを望んでいたようだが故郷は戦争と疫病で帰れる状態になく、1529年にようやく一時帰国したが望む職が得られずサッコに戻った。その後サッコで結婚し、1534年にはミラノに職を得て帰国している。


 カルダーノはトラッポラについて「ヴェネツィアのゲーム」と述べているが、これをアドリア海に造られた島、サンマルコ寺院とリアルト橋とゴンドラで有名な街ヴェネツィアだと受け取るのは早計であるのかもしれない。カルダーノの時代にはイタリア共和国はおろかイタリア王国さえなかった。カルダーノの言う「ヴェネツィア」とはヴェネツィアの街というよりもヴェネツィア共和国全域、とりわけパドヴァとサッコのことなのかもしれない。ヴェネツィアの街ももちろんヴェネツィア共和国の一部であり、それどころか首都なのだが、それがヴェネツィア共和国のすべてではない(逆に首都ヴェネツィアを象徴するトランプゲームがもしあるとするなら、さしずめ第1章で見たバセッタがそれに当たるだろう)。『サイコロの遊びについての本』にはサッコの町でトラッポラに夢中になったと述べられている。カルダーノがサッコで暮らし始めたのは1526年なのだからトラッポラを覚えたのは早くともその年なのかと言うと、これもまた違うようだ。カルダーノはどうやら1524年に『ゲームについて(De Ludis)』という文章を執筆したらしい。もっともこの文章は未完に終わった上に、書かれたと言い伝えられているだけで現存していない。この中でカルダーノはトラッポラにも言及したらしく、これが正しければカルダーノはパドヴァ大学入学直後からトラッポラを知っていたことになる。このようなわけで、1564年頃に『サイコロの遊びについての本』の中でカルダーノが書き残したのは1524年から1530年頃のトラッポラの姿だったと考えられる。


 ちなみに1524年の『ゲームについて』を根拠に、トラッポラの文献初出は1524年だとする主張を見掛けることがあるが、すでに述べたようにこれは未完の上に現存しない文献であることに注意しなければならない。その一方でティエリ・ドゥポリスは2008年に発表した論文の中でトラッポラの文献初出は1501年だとした。さらにその9年後クロブシツキーはトラッポラの初出を1495年に修正した。こうしたことから考えてトラッポラが15世紀末頃には存在していたことは間違いなさそうだ。

〔略〕

5もう一つの源泉


 炯眼な読者であれば本書の第1巻では述べられるべきことがいくつかすっぽりと抜け落ちていることにお気づきであろう。


 第1巻第2章p.58では「トリウンフォ」は少なくとも三種類存在したことを見た。そこで「イタリア/フランス/スペインのトリウンフォ」と呼んで区別することにしたのだった。このうちイタリアのトリウンフォは第2章で、スペインのトリウンフォは第4章でそれぞれ扱った。ところがフランスのトリウンフォについては何も述べなかった。これがすっぽりと抜け落ちている第一の点である。実のところまったく何も述べなかったわけではなく、第2章で1480年および1496年のフランスの資料に「トリアンフ」が登場すると指摘したのだが、この「トリアンフ」がタロットのことなのかそれともトランプゲームなのかは不明だとも述べた。もしトランプゲームだったとしたらどのようなゲームだったと想定されるかという点については何も触れなかった。これでは何も述べたことにはならない。「フランスのトリウンフォ」とはいかなるゲームだったのだろうか。


 これと関連して第二の点である。同じく第1巻第2章のp.50では、確実にトランプゲームだと判断されるトリウンフォが確認できる最初の資料はフランチェスコ・ベルニ (Francesco Berni) の『プリミエラの遊戯についての章 (Capitolo del Giuoco della Primiera)』(1526年)だと述べたが、これはイタリアの文献である。ここから分かるのは、15世紀には確かにイタリアのトリウンフォはタロットを指していたが、16世紀に入るとイタリアにおいてもトリウンフォは徐々にトランプゲームを指すように変化していき、16世紀半ばにはもっぱらトランプゲームを意味するようになっていたということである。この辺りの事情についてはp.58でも次のようにお断りしておいた。


 「イタリアではその後トリウンフォ(トリオンフォ)という名のトランプゲームが何種類も生み出されたが、本書がここで『イタリアのトリウンフォ』と呼ぶのはあくまでも15世紀から16世紀初頭のタロットのことである。両者は別物であり混同してはならない。」


 つまり第1巻第2章では「イタリアのトリウンフォとはタロットのことだ」という前提で話を進めたが、実際には遅くとも16世紀半ば以降はイタリアでもトリウンフォはトランプゲームだったのだ。ではそれはどのようなゲームだったのだろうか。p.58注44ではイタリアで「トリウンフォ」と呼ばれるトランプゲームの代表としてエミリア地方で遊ばれている切り札を伴ったトレセッテを挙げておいたが、これは比較的近年に生まれたゲームだと考えられ16世紀にプレイされていたとはとても思えない。


 抜け落ちている第三の点はトランプゲームと切り札との関係である。第1巻第2章で切り札の誕生について述べた。切り札の誕生は同時にタロットの誕生でもあった。なぜなら誕生当初の切り札は「どのスートからも独立した、どのスートのカードにも──王にさえ──勝つ特殊なカード」だったからだ。そして第3章では切り札のアイディアがトランプゲームに取り入れられる過程について見た。とはいえカーネフェルの切り札は「王に勝つカード」であって、後の時代のトランプゲームに普通に見られる「一つのスートに属するカード全体が他のカードに勝つ」というものではなかった。「どのスートにも属さない特殊なカードがスートのあるカードに勝つ」というアイディアから「あるスートのカードが他のスートのカードに勝つ」という意味での切り札を生み出すには大きな発想の転換が求められたということだろう。では「一つのスートに属するカード全体が他のカードに勝つ」というルールを採用した史上初のトリックテイキングゲームは何か。トランプゲームにおける切り札の発達史において決定的に重要なこの点について第1巻には何も述べられていない。


 第三の点と関連して第四の疑問も思い浮かぶ。第1巻第4章で見たスペインのトリウンフォの子孫に当たるゲーム群は──第6章で扱ったスポイルファイヴも含め──「台札と同じスートのカードが手札にあるとき、それを出してもよいし切り札を出してもよい」というルールで行われるのが基本だった。そこで私はスペインのトリウンフォそれ自体もこのようなルールで行われたのだろうと想定した。他方トランプを用いたトリックテイキングゲームの多くは「台札と同じスートのカードが手札にあるときには必ずそれを出さねばならず、切り札を出すことはできない」というルールで行われる。ではこのようなルールを採用した史上初のトリックテイキングゲームは何か。これについてはよく分かっていないが、私はタロットが誕生した時点で──それは「切り札が誕生した時点で」ということでもあるわけだが──すでに存在したルールなのではないかと想像している。しかしもし仮にこれが正しかったとしても、ではトランプゲームで「台札と同じスートのカードが手札にあるときには切り札を出すことはできない」というルールを伴った最初のものは何か、という問題が残されている。


 本書第1巻の第2章と第3章は切り札の誕生、第7章はビッドの発明が中心テーマだった。そして第4章から第6章は第7章でオンブルを扱うための予備知識を提供するための章だった。要するに第1巻は第3章と第4章との間に大きな断絶があり、内容が連続していないのである。私はそれを百も承知で第1巻を執筆した。切り札とビッドの誕生をテーマとした以上、第3章と第4章との間に話の飛躍があろうとあのような構成にせざるを得なかった。本書もいつの間にか第5章に入ってしまっているが、ここに至ってようやく私は両者の溝を埋める作業を行おうと思う。

〔略〕

第6章 ビッド再考


 本章はある意味で前章の補足である。トリオンフの生んだ極めて重要な──「最も重要」とまでは言えないかもしれないが──ヴァリアントについて考察する。同時にまた本章は本書第1巻第7章に関する訂正と補足でもある。


 オンブルは歴史上初めてenchèreのシステムを採用したトリックテイキングゲームだとドゥポリスは主張する。「影と光─オンブルに差す微かな光」でも『ブリッジの歴史』でもそう述べている。私はドゥポリスのこの主張を全面的に受け入れて第1巻第7章を執筆した。ところでenchèreとは「競り上げ」を意味する。要するにビッドだ。したがってドゥポリスはオンブルが史上初のビッドを伴ったトリックテイキングゲームだと主張していることになるし、私もこの主張に同意している。しかしビッダー選定の方法として次のようなシステムを考えてみよう。


(1)      各プレーヤーが順番に、ビッダーになるかならないかを宣言していく。

(2)      誰か一人でも「なる」と宣言した人がいたらその人がビッダーとなってビッダー選びは終了する。たとえ後続のプレーヤーの中に自分もビッダーになりたいと希望する者がいたとしてもなれない。


 これは競り上げとはとても呼べない。現実世界の競りが「1000円!」「1200円!」「では1500円!」と競り上げていき、最も高値を付けた人が競り落とすものであるように、トリックテイキングゲームにおける競りも「スペードで6トリック」「ダイヤで6トリック」「スペードで7トリック」というように競り上げていき、最も上位の契約を請け負った人が競り落とすものでなくてはならない。しかしその一方で、「ビッダーになるかならないか」を宣言するだけの単純素朴なシステムもビッドと言えばビッドではないだろうか。

 トリックテイキングゲームにおけるビッドの誕生と発展の歴史について考えてみると次のような段階を追って進化したのだと考えられる。


a.          ビッドと見なせるものがまったくない段階

b.         ビッダーになるかならないかを宣言するだけの原始的なビッドのみが存在する段階

c.          競り上げとしてのビッドが存在する段階


 つまりaとcの中間にbの段階が挟まれているはずなのだ。トリックテイキングゲームでbとcの区別がなされることは多くなく、両者は一まとめに「ビッド」と呼ばれることが多い。だが厳密に言えば両者は別物であり、かつてはcの形式(すなわち競り上げ)は「オークション」と呼ばれることもあった。例えばコントラクトブリッジの前身となったゲーム群の一つに「オークションブリッジ」がある。そしてオークションにおいて、競り値を付けて入札する一回一回の行動がビッドであり、オークションは参加者がビッドを繰り返すことで成り立っているとも言える。


 要するにここまでで述べてきた問題はオークションとビッドの混同、すなわち「ビッド」という用語をオークションに対しても使用することがその原因である──上述のとおり実際にはオークションのことをビッドと呼ぶのはよくあることではあるのだが。したがって本章では以後オークションとビッドを区別したいと思う。改めて説明するとオークションとはゲームを請け負うビッダーを決めるためのシステムであり、「スペードで6トリック」「ダイヤで6トリック」「スペードで7トリック」というように競り上げていって一人を残して全員パスしたら最後まで残った一人がビッダー(ゲームによっては「デクレアラー」などとも呼ばれる)となる方式のことを指す。ビッダーは自身が最後に宣言した、最も上位の契約を請け合ったことになり、プレイを通じてその達成を目指さねばならない。そしてオークションにおいて「スペードで6トリック」あるいは「ダイヤで6トリック」といった入札(トリックテイキングゲームにおいては「契約の宣言」とでも言った方がより適切だろうが)の一つ一つをビッドと呼ぶ。要するにオークションとは競り上げだが、ビッドとは「競りの一回一回の行為」であって競り上げではない。すると上記cは「オークションのシステムを伴った、ビッドが繰り返し行われるゲーム」、bは「誰か一人だけが一度だけビッドすることを許される、オークションのシステムは伴わないゲーム」だということになる。


 ここで問題となるのはドゥポリスの言うenchèreのシステムとは何か、である。私は当初、ドゥポリスはbとcの両方を指してオンブルこそがビッドを伴った史上初のトリックテイキングゲームだと述べていると理解していた。しかしこれはどうやら私の誤読であり、よく読み返してみるとドゥポリスのenchèreとはオークションを指しているのであって、厳密な意味でのビッドの誕生については明言を避けているように思われる。つまりドゥポリスはオンブルはオークションを伴った初のトリックテイキングゲームだという意味を込めてenchèreという語を使用しているようなのだ。


 このようなわけで私が本書第1巻第7章で述べたことに関して読者諸氏にお詫び申し上げるとともに本章でその一部を訂正させて頂くことにしたい。すなわち、ビッダーになるかならないかを宣言するだけの最も単純素朴なビッドを伴ったトリックテイキングゲームは一体いつどこで生まれたのかについて改めて問い直すことにしたい。実のところ本章でこの問いに対する明確な解答を示すことはできないのだが、それでも現在のところ何が判っているのかをはっきりさせた上で「不明なものは不明」と結論づけるのは決して無駄なことではないだろう。


〔略〕