トリックテイキングゲーム発達史

『トランプゲームの源流 第1巻 トリックテイキングゲーム発達史』

黒宮 公彦 著

合同会社ニューゲームズオーダー刊 2022年2月15日発売 (Kindle版2月17日発売)

※このページの下部から本書の一部を試し読みいただけます。また、誤記訂正があった場合はこのページの末尾に追加されます

本書はトランプゲームの初期の歴史について明らかにすることを目的としている。もう少し具体的に述べると主に15世紀から17世紀前半にかけてのトランプゲームを取り上げ、どのようなルールで行われたものなのか考察する。加えてトランプゲームとその変遷の歴史について、主にゲームのシステムの視点から概観する。トランプの歴史についてカードの観点から述べた書物は多いが、ルールおよびそのシステムを軸としたものは極めて少ない。本書はそれに対する試みである。併せてそうしたゲームが当時の人々にとってどのような存在だったのかについても可能な限り考察を加えたいと思う。

(中略)

 なお本書で扱うのはトランプのゲームの歴史であって、カードの歴史には触れない。実際には第1章でカードの歴史についても必要最小限触れることになるが、正直なところカードの歴史は私の興味の対象ではない。カードの歴史については欧米ではたくさんの書物が書かれているので興味のある読者はそちらをご覧頂きたい。これに対してトランプゲームの歴史に関する書物は欧米でも驚くほど少ない。それでも論文であればそれなりの数に上るので、それらの内容をまとめたのが本書である。

 本書は当初一巻で完結させるつもりで書き始めたのだが、書いているうちにとても一冊では収まりきらない分量となることが判ったので数巻に分けることにした。そのうちひとまずどうにか書き上げた第1巻をここにお届けする。結果的に第1巻はトランプゲームの中でもトリックテイキングゲームと呼ばれるものの歴史、とりわけトリックテイキングの原理を支える最も重要な要素である「切り札」と「ビッド」の歴史に焦点を当てたものとなった。

(「はじめに」より抜粋)


* * *


黒宮 公彦(くろみや きみひこ): 1971 年三重県生まれ。京都大学文学部卒。学生時代に世界各地の伝統的なカードゲームに興味を持つようになり、以来ルールについて調べている。The International Playing-Card Society会員。著書に『クク大全』(合同会社ニューゲームズオーダー)がある。

冊子版 〔A5判 ソフトカバー 276頁(+表紙4頁)単色刷 〕

 ISBN978-4-908124-61-7 C3076 価格3850円(本体3500円)

電子書籍版 

 ISBN978-4-908124-60-0 C3876 価格2200円(本体2000円)

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目次

はじめに... 2

目次... 4

序章 ゲームを復元するということ... 6

◆基本用語の解説... 10

第1章 バーゼル、1377年... 21

第2章 ゲームとしてのタロット... 38

◆タロット・1《15世紀半ば頃》... 68

◆タロット・2《ミラノ、1420年頃》... 70

◆タロット・3《フェッラーラ、16世紀半ば頃》.. 73

◆タロット・4《フランス、17世紀前半》.. 76

◆タロット・5《フランス、17世紀半ば頃》... 80

◆タロット・6《スイス、17世紀半ば頃》.. 84

コラム〜数札の反転... 87

第3章 変容する切り札... 90

◆コラム〜「1426年説」の顛末... 101

◆カイザーシュピール・1《ダメットによるオリジナルルール》.. 103

◆カイザーシュピール・2《スイス、1978年》... 110

◆カイザーシュピール・3《スイス、1841年》... 116

◆カーネフェル・1《フリースラント、1924年》.. 122

◆カーネフェル・2《テューリンゲン、1783年》.. 126

◆カーネフェル・3... 131

第4章 スペインの勝利... 136

◆スペインのトリウンフォ... 142

◆原ウンスン... 148

◆グリティパウ(概要).. 152

◆マリンバ(概要)... 157

◆カリンボ... 160

第5章 辻褄合せ... 163

コラム〜語源考... 185

第6章 スコットランドの宮廷から... 189

◆トウェンティファイヴ.. 190

◆スポイルファイヴ... 193

◆ファイヴカード... 196

◆モー... 206

第7章 ビッドの誕生... 210

◆オンブル・1《イギリス、1660年頃》... 215

◆オンブレ《スペイン、17世紀前半》... 225

◆オンブル・2《フランス、1670年頃から18世紀初頭》.. 241

◆オミ《インドネシア、19世紀から20世紀》.. 263

コラム〜原初のトリックテイキングゲーム... 267

参考文献一覧... 270

奥付… 276

試し読み

序章 ゲームを復元するということ

 「はじめに」で述べたように本書は主に15世紀から17世紀前半にかけてのトランプゲームがどのようなルールで行われたものなのかについて考察する。とはいえ、あらかじめお断りしておかねばならないが、当時のルールは不明である。トランプゲームのルールが記述されルール集が出版されるようになったのは17世紀後半以降だと言ってよい〔具体的には1654年にパリで出版された『学術的遊戯の館 (La Maison des Jeux Académiques)』がその嚆矢であろう〕。それ以前のトランプゲーム──本書はまさにそれを扱うことになるのだが──は名前のみが文献に散見されるというのが普通であって、ルールについて何らかの示唆をする記述が認められるゲームはわずかである。ましてや比較的まとまった記述が残されているものはごくまれであり、またそうした記述であってもルールの細部まで述べたものは皆無である。これは決して17世紀前半以前に限った話ではない。17世紀後半以降トランプゲームのルール集が次第に出版されるようになっていくが、ルールの細部が不明瞭である点についてはあまり改善されなかった。当時の記述に従ってゲームを試そうとしても実際には遊びようがないというのは珍しいことではない。もう少し具体的に述べると文献に現れるゲームに関する記述には次のようなレベルがあり、下に行くほど文献数が少なくなると言える。

(1) 何らかの名称が登場する。

(2) それがゲームの名前であることが確認できる。

(3) それがトランプゲームの名前であることが確認できる。

(4) それがどのような種類のゲームであるか、大まかなことが確認できる。

(5) ルールが部分的ながら確認できる。

(6) ルールが記述されているが細部には不明な点が残されている。

(7) プレイに支障がない程度にルールが記述されている。

 17世紀後半以降であっても (7) に相当する資料は多くない。ましてや17世紀前半以前のものについては (1)〜(3) に該当するものが圧倒的に多く、わずかな資料に残された断片的な記述を繋ぎ合わせたところで一つのゲームとして成立することはない。それでもこうした断片的な記述を元に復元作業を試みるのではあるが、ある程度のレベル(実際にプレイ可能な程度までルールの細部を詰めるという意味でも、歴史的に見てある程度の信頼が置けるルールを復元するという意味でも)で復元するためには以下の条件が揃っていなければならない。

(1) そのゲーム、もしくはその子孫に当たるゲームが後代まで遊び継がれたことが確認できる。

(2) 後代のルールであれば詳細が判明している。

(3) 17世紀前半以前の資料が示すルールが後代のルールとある程度合致し、それ以外の点でも矛盾が見られない。

 こうした条件を満たしていればある程度のレベルの復元は出来なくはない。後代のルールを基本とし、そこに17世紀以前の資料が示すルールを加えてやればそれらしいものが出来上がる。けれどもそうして出来上がった復元ルールが17世紀以前のルールを忠実に再現している保証などどこにもない。シューベルトの『未完成交響曲』やモーツァルトの『レクイエム』の完成版の作曲が時折試みられるが、それはあくまでも補筆者の解釈でしかなく、シューベルトやモーツァルトが未完成の曲を完成させることは原理的にあり得ない。それとまったく同じように断片的な資料しか残されていない古いゲームのルールを、たとえ後代のゲームのルールで補って作り上げたとしても、所詮それは補作者の解釈の域を出ない。詳細を述べた資料がない以上17世紀以前のルールを再現することは──書くのもためらわれるほど自明の話であるが──原理的にあり得ないのである。本書に示すルールもすべて20世紀・21世紀の(私自身も含めた)研究者による復元ルールなのであって、断じて17世紀以前のルールそのものではないことをくれぐれもお断りしておく。

 とりわけ注意しなければならないのは次の点である。すなわち、ある同一の名前のゲームGについて、ある時代にAという町で書かれた記述D1と、その100年後にBという町で書かれた記述D2とが残されていたとする。ここからGはD1に示されたルールから100年という歳月をかけてD2に示されたルールへと発達した、と考えてはならないということである。なぜならAとBは別の町であり、Aの町のルールがBに伝わった保証などないからである。この事実から言えることはせいぜいGはAとBとで独自の発展を遂げたという程度のことであって、元は一つだった(かもしれない)ゲームが異なった時代に異なった場所で記述されたという以上のものではない。したがって「D1のルールを試した後にD2のルールを試すことでGの歴史的変遷を辿ることができる」などというのは率直に言って馬鹿げた妄想でしかない。ことほどさように古い時代のゲームの実態を摑みルールを復元することは一筋縄ではいかない。

 このようなわけであるので、本書では一部のゲームについて復元ルールを示すが、断じてそれは17世紀以前に実際にプレイされたルールではなく、現代に作られた模型でしかない。どうしても古のゲーム群の真の姿が知りたいと望む読者には、辛うじて残された資料を自分の目で一つ一つ確認する作業をする以外に方法はないと申し上げる。そのために巻末には参考文献の一覧を付した。なお本文中あるいは脚注の出典情報はスペースの都合上簡略化したものを示してあるので、詳細は巻末の参考文献一覧を参照してほしい。

 あらかじめ読者にお断りしておかねばならないことがもう一つある。15世紀から17世紀にかけての文献資料にトランプゲームが登場するとしたら、そうしたゲームは上流階級が楽しんだものだったと考えるべきだということである。文献資料とは、文字を読み書きできる教養と、紙やインク、あるいは書籍を購入できる金銭的余裕とを備えた人々が残したものであることを理解しなければならない。下層階級の人々がいかなるトランプゲームを楽しんだのかは永遠の謎である。本書としても否応なく上流階級、あるいはせいぜい中産階級が弄んだゲームを対象とせざるを得ない。

 したがって文献に記述が残されているから当時は盛んに遊ばれたのだろうと推測するのは危険である。本当に盛んに遊ばれたゲームの多くは、とりわけ17世紀前半以前においては、資料が残されていない、あるいは名前しか分からないと考えるべきだ。17世紀後半以降にあっても世間が低俗なものと見なしていたゲームに関しては残されているルール記述は極めて少ない。しかし世間が低俗なゲームと見なしていたということは読み書きとは無縁の階層の人々には人気があったということでもあるのだ。

 それにしても、なぜ古い時代のゲームのルールは詳細が不明なのだろうか。とりわけ17世紀後半以降にはトランプゲームのルール集が出版されるようになったにも関わらず、なぜそうした文献を確認してもルールの細部が判明しないなどということが起こるのだろうか。ここで我々は次の二点について理解しておかなければならない。

 第一に、ゲームとはプレイしながらルールを知っている人に直接教えてもらえれば理解しやすいものであるのに、言葉だけを使ってルールを正確に伝えるのは非常に困難であるような、そのような性質を持ったものなのである。その上ゲームを知っている人には余りにも自明であるのに知らない人にはまったく分からない事柄が非常に多い。このためゲームを知っている人には往々にして「ゲームを知らない人は何が分からないのか」が分からないものなのである。その結果ゲームを知っている人のルール説明は、本人にとっては自明でも初心者には一向に自明でない肝心の部分を飛ばしてしまいがちになり、「ルールを知っている人にしか理解できないルール説明」となってしまう。それでも多くの人がゲームに馴染みがあった時代にはルールの伝達は文献ではなく実際のプレイを通じて行われたはずであり問題はなかっただろうと予想される。ところが実際にプレイする人がいなくなってしまった後の時代となると古いゲームの復元には文献に頼る以外になく、そうした文献では昔の人々にとっては自明だった肝心の部分の解説が見当たらずに当惑することとなるわけである。

 以上はわりと多くの人が理解していることではないか。それに比べると第二の点はほとんど意識されておらず見過ごされているのではないかと思われる。すなわち17、18世紀頃のゲームのルール集は必ずしも「ゲームを知らない人に正確にルールを伝えることを目的としている」とは限らない、ということである。オンブルのルール記述(第7章参照)が好例だ。カードの配り方を例に取ろう。現代のトランプゲームの本なら「各自に9枚ずつ配ります」、あるいはせいぜい「各自に3枚ずつまとめて配っていき、3巡して1人9枚ずつになるよう配ります」で済ますところだ。ところが18世紀のオンブルのルールを読むと、もし3枚ずつまとめて配らなかったらディーラーにはどのような罰則が与えられるか、10枚配ってしまったらどうなるか、それはディーラー自身の手札か他のプレーヤーのものか、8枚しか配られていないことに気づかずにプレイが始まったらどうなるかといったことが、数ページに亘って事細かに延々と述べられている。これは現代のトランプゲームの本では考えられないことだ。ここから当時のルールは「実際にプレイしていてトラブルが生じたときの対処法を示すこと」が重要だったのではないかと推察される。それにしてもなぜトラブルが生じるのだろうか。現代の我々の感覚からするとディーラーが配り間違えたのなら配り直せばいいだけの話で、わざわざ細かくルールを規定して記述する必要はないのではないかと感じられることだろう。たかだか配り間違い程度のことがトラブルとなる背景には、当時の人々が金銭を賭けてトランプゲームをしていたこと、そしてそのためにイカサマが横行していたことがあったと考えられる。今日の我々が純粋な娯楽としてトランプで遊ぶのとは事情が違うのだ。このように当時と現在とではルールを記述する目的が異なっていた可能性があることを理解しておかねばならない。


〔略〕

第1章 バーゼル、1377年

 トランプはいつ、どこで誕生したのだろうか。

〔略〕

 中国に多種多様な遊戯用カードが存在していることは事実である。先に触れたように麻雀牌の祖先に当たる馬吊牌(または馬弔牌、馬掉牌など)と呼ばれるカードもかつては存在し、その子孫は現在でも麻雀牌以外にも様々な形で残されている。馬吊牌はさらに古くは「葉子戯」と呼ばれた。葉子戯という語の文献初出は9世紀末、つまり唐の時代であり、これに基づき「9世紀に遊戯用カードが存在していた」と述べる欧米の文献は少なくない。しかし大谷道順は「馬掉牌考」で9世紀の葉子戯はサイコロ遊びだったと述べている。要するに葉子戯と呼ばれるゲームには少なくとも二種類あり、唐・宋ではダイスゲーム、明代以降はカードゲームだったということのようである。元代については史料に乏しく不明である。またアンドリュー・ローは「明代後期の馬吊ゲーム」〔”The Late Ming Game of Ma Diao" (2000)〕中で、中国の遊戯用カードに言及している最古の文献は元代の政治について記録した『大元聖政國朝典章』だと述べている。これによると1294年に二人の人物が賭博の罪で逮捕され、その際に遊戯用カード九枚とカードを印刷するための版木が押収されたことが記録されているという。1279年に元が南宋を滅ぼして中国を統一したことを考慮すると遊戯用カードの発明は宋代末期または元代初期ということになろうか。けれどもこの時のカードが具体的にどのようなものだったのかは史料からは分からない。ローによると遊戯用カードに言及している次の文献は陸容 (1436-1494) によって書かれたもので、最初の文献からずいぶんと時代が隔たっている〔なお中国では1368年以降明代に入る〕。陸容が著した『菽園雑記』には葉子戯に関する詳しい説明があり〔Lo, ibid.〕、4スート38枚(スートごとに枚数が異なっていた)のデックを用いたことが判る。したがって15世紀の中国に遊戯用カードが存在したことは間違いない。だが1294年の『大元聖政國朝典章』からはどのようなカードだったのか、スートはあったのか、何枚のカードで構成されていたのかといったことは何も分からない。そしてその後百年以上もの長きに亘って史料は遊戯用カードについて沈黙してしまう。結局15世紀の『菽園雑記』以前のことはよく分からないと言わざるを得ない。

〔略〕

〔…〕ペルシアのガンジフェにしてもその存在は1515年頃以降は確認できる〔Kaushal Gupta, "Gambling Game of Naqsh and Ganjifa Cards" (1979); Rudolf von Leyden, "The Ganjafeh Game and Cards in Iran" (1981)〕が、それ以前に遡ることはできない。ガンジフェは8スート12ランク、計96枚のデックだったようなので、そこに至るまでに次のような歴史があったのではないかと想像される。すなわち「ガンジフェはもともと4スート12ランク、計48枚のデックだった。その頃に他のイスラム諸国に伝播した結果4スート13ランクのデックが生まれ『カンジファ』と呼ばれた。一方ペルシア本国では8スート12ランクに拡張されたデックが生まれ、次第にこちらが主流となっていった。これがインドに伝わり『ガンジファ』となった」と。けれどもこれを裏付ける証拠はなく、想像の域を出ない。果たして、遅くとも14世紀半ば頃までにペルシアにガンジフェが存在していたのか、もし存在していたとしたら中国からペルシアにどうやって伝わったのか。こうした大きな問題が未解決のまま残されており、これらの謎が解明されるまでは中国発祥説も「中国→ペルシア→イスラム圏→ヨーロッパ」という伝播の経路も仮説の地位に留まり続けることとなる。

 ではトランプはいつごろヨーロッパに伝わったのだろうか。また伝来当初のトランプはどのようなものだったのだろうか。〔…〕

〔略〕

第2章 ゲームとしてのタロット

〔略〕

〔…〕従来はタロットは1440年頃発明されたと考えられていた。それを遡る資料は未発見だった。ところが1425年以前に遡ることが確実なカードの存在を示す資料が発見されたのだ。しかしこれはタロットなのだろうか。マルチェッロが1449年に「トリウンフス」と呼んだのは確かだが、マルツィアーノはそうは呼ばなかった。だがタロットが発明された瞬間から「トリウンフィ」と呼ばれていたという保証もない。もし仮にマルツィアーノが作ったのが世界初のタロットだったとして、マルツィアーノ自身はそれを「トリウンフィ」と呼ばなかったとしても不思議ではない。そしてもし仮にこれが世界初のタロットだったのだとしたら、タロットの発明者(より正確には発案者)はミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティその人だということになる。 〔…〕

〔略〕

〔…〕トランプに似た平札に寓意画が描かれた特殊な切り札が加わることで成り立っているところにタロットの最大の特徴がある。すでに何度も登場したが、この特殊な切り札は当初「トリウンフィ (triunfi)」もしくは「トリオンフィ (trionfi)」と呼ばれた。以下「トリウンフィ」として話を進める。これは「トリウンフォ (triunfo)」の複数形であるから切り札の1枚1枚はトリウンフォと呼ばれたはずである。なお「トリウンフォ」はラテン語の「トリウンプス(triumphus、複数形はtriumphi)」に由来する。「トリウンプス」はもともとは「(戦争に勝利した後の)凱旋」を意味したが、後には「勝利」そのものをも意味するようになった。切り札は平札に勝つのだから「勝利」すなわち「トリウンフィ」と呼ばれたのは自然なことのように思えるが、実際にはトリウンフィと呼ばれるようになった経緯は不明である〔Dummett(1980:87)〕。一つはっきりしていることは、切り札それ自体のみならず、平札も含めたデック全体もトリウンフィと呼ばれ、さらにそのデックを使って遊ばれるゲームもまたトリウンフィと呼ばれたことである。なおデックとしてのトリウンフィは「トリウンフィのカード (carte da triunfi)」とも呼ばれた。

 つまり、あらかじめ述べておいたように、タロットは初めから「タロット」と呼ばれたわけではない。ではタロットはいつからタロットと呼ばれるようになったのか。〔…〕

〔略〕

 いずれにせよ、遅くとも1526年にはトランプゲームとしてのトリウンフィが現れた。トリウンフィは元来タロットの切り札を指していたのだから、切り札の概念がトランプにも適用されるようになった、すなわち切り札のあるトランプゲームが出現したことを意味する。切り札のあるトランプゲームとしては当時すでにカーネフェルがあったはずだが、カーネフェルの切り札は通常の切り札と意味合いが違うことに留意すべきである(この点については次章で考察する)。いずれにせよ切り札を伴った新しいタイプのトランプゲームが現われて「トリウンフォ」などと呼ばれたわけだが、ある特定のゲームがそう呼ばれたわけではない。どうやら16世紀には切り札のあるトランプゲームが流行して次々と新しいゲームが生み出され、しかもそれらの多くが「トリウンフォ」もしくはそれに類する名で呼ばれたということであるようだ。 〔…〕

〔略〕

第3章 変容する切り札

〔略〕

 ところで、トリックテイキングゲームの発達史において最大級の発明の一つが切り札である。前章ではタロットの誕生について見たが、それは同時に切り札の誕生でもあった。トリックテイキングゲームに切り札がなければ台札が圧倒的に有利となるので、ディールの後半に誰かが長いスートで走ると他のプレーヤーには阻止しようがなく、同じ人が立て続けにトリックを取ることになる。これではゲームの面白味が削がれてしまう。そこで台札スートでないカードでもトリックに勝つチャンスを与えることで誰かが長いスートで走ることを抑制するために切り札が発明されたのではないだろうか。あるいはもっと単純に、切り札のないゲームでは王の札が圧倒的に有利であるため、それを面白くないと感じた人がいたということなのかもしれない。そこで王にさえ勝つカードとして切り札が発明されたのかもしれない。

 そしてこの「切り札」という画期的なアイディアはトランプゲームにも取り込まれていくこととなり、数々のゲームを生み出した。けれども発明当時の社会情勢を考慮すると「切り札のアイディアは画期的でゲームが面白くなるから」という単純な理由だけでトランプゲームに採用されたわけではなく、それとはまた別の大きな要因があったように思われてくる。もちろん切り札がいつどこでどのようにしてトランプゲームに取り込まれたのかはよく分からない。けれども幸いなことに「カーネフェル (Karnöffel)」という古いゲームがあり、取り入れられた当初の切り札の役割を今に伝えているのではないかと考えられる。そのようなわけで本章ではカーネフェルについて概観してみたい。

〔略〕

第4章 スペインの勝利

〔略〕

 ポルトガル船で許されたトランプゲームがトルンフだけだったというのはにわかには信じ難い話であるし、ポルトガルから日本にはトルンフ以外のトランプゲームもいくつか伝えられたのではないかと私は思う。それでもトルンフが伝来したトランプゲームの代表格だったことは間違いないだろう。となるとトルンフこそがウンスンカルタの元となったゲームであるのも確かなことだと思われる。

 スペインのトリウンフォ→ポルトガルのトルンフ→原ウンスン→ウンスンカルタと変化したのであれば、この矢印を逆に辿ることで謎の多いスペインのトリウンフォや実態がまったく判っていないポルトガルのトルンフの手掛かりが得られるに違いない。トリウンフォにせよトルンフにせよ48枚一組のトランプで遊ばれたはずだが、48枚のポルトガルのトランプを75枚に増やしてウンスンカルタとするために以下の工夫がなされたと考えられる。(1)「スン」「ウン」という二種類の絵札を追加した。(2) ポルトガルのトランプの1の札には竜が描かれていたが、これを1の札と竜の札(「ロバイ」と呼ばれる)の二つに分けた。(3)「グル」というスートを追加した。そうであるならばウンスンカルタから「グル」「スン」「ウン」と1の札をすべて取り除き、「ロバイ」を1の札だと見なした上で改めてウンスンカルタのルールを見直してやれば原ウンスンになるはずだというのがドゥポリスの考えたことだった。以下にドゥポリスが想定する原ウンスンのルールを示す(ただし私が一部修正や補足をしている)。これを見れば原ウンスンとトリウンフォの共通性は明白であろう。

〔略〕

第7章 ビッドの誕生

〔略〕

 ダメットは、トリックテイキングの原理それ自体が発明されて以後トリックテイキングゲームに新たに導入された画期的な原理が2つあると述べている。すなわち「切り札」と「ビッド」である〔Michael Dummett『The Game of Tarot』(1980:173)〕。本書の第2章と第3章では切り札の発明について考察した。本章ではビッドの誕生について見ることにしたい。このテーマでは必然的にオンブルを扱うこととなる。第4章の最後に述べたように本書の第4章から第6章にかけては本章でオンブルについて考察するための下準備だったとも言える。トランプゲームの歴史においてスペインのトリウンフォももちろん非常に重要なのだが、それでもオンブルは別格である。

 オンブルの一体何がそれほどまでに特別なのか。オンブルについてダメットは次のように述べる。「全盛期には、かつて生み出された最も成功したカードゲームだった」〔Dummett, ibid.〕。要するにオンブルは史上最も流行したトランプゲームなのである。

〔略〕

 これもドゥポリスによれば、オンブルの文献初出はイギリスでは1661年、フランスとイタリアでは1671年である。そしてその直後から比較的まとまった記述が残されており、各国に伝わった当初からオンブルの人気の高かったことが窺われる。

 ここで注目すべきはオンブルが盛んに遊ばれるようになったのは17世紀後半のことであって、意外と新しいゲームだということである。ハロルド・ウェイランドとヴァージニア・ウェイランドは1974年に発表した文章の中で「『オンブル』を次第に変形させ簡単にしたものが、『ウンスンカルタ』と思われる」〔ハロルド・ウェイランド、ヴァージニア・ウェイランド、「オンブルからウンスンへ」(1974)〕と述べた。ここからも分かるように1970年代から1980年代初頭にかけては研究者の間でも「オンブルは古くからあるゲーム」「オンブルは日本にも伝わった」という「常識」が受け容れられていたようだが、これに疑問を抱いたのがドゥポリスだった。彼はまず1983年の「ウンスン─オンブルの極東の従兄弟」〔Thierry Depaulis, "Unsun, a Far-eastern Cousin of Ombre" (1983)〕によってこの風潮に一石を投じ、オンブルとウンスンカルタは親子の関係ではなく従兄弟の関係にあるとした。さらに1987年には満を持して「影と光─オンブルに差す微かな光」〔Thierry Depaulis, "Ombre et Lumière. Un Peu de Lumière sur L’hombre" (1987a-c)〕を発表した。これによって示されたのがオンブルが比較的新しいゲームである可能性だ。オンブルの文献初出が1661年というだけなら、古くから遊び継がれてきたゲームがたまたま1661年に記録に残されただけだと考えることもできるかもしれない。だがオンブルに言及している資料の数は1660年代以降急激に増え、しかも単に言及するのみならずルールまで記述した資料も少なくない。この事実から考えると、古くから遊び継がれてきたゲームがたまたま記述されたと言うよりは、あるとき突然知られるようになったゲームが急速に人気を博していったと捉えるべきであるように思われる。オンブルは1660年頃にイギリスで知られるようになり、またフランスでもそれと同時期か、遅くとも1670年代初頭には流行していたと考えるのが自然である。おそらくフランスとほぼ時を同じくしてイタリアにも伝わったことだろう。そしてパリでの大流行が引金となって影響はヨーロッパ全土に及んだ。〔…〕

〔略〕